フランスの言語と文化

■第二回レポート概要

●言語・文化政策の必要性
授業で取り上げられたフランスにおける言語・文化政策の中で、国や地域の支援を受け制作された文化作品は、国や地域のアイデンティティ(個性)が表れており、そのため自由貿易で他国の作品が入ってくるとそのアイデンティティが失われる危険性があるので対外的な文化政策が必要とされているという話があったが、私は他国の作品が輸入されたとしても、フランスの人々がその輸入された作品達に高い評価を与え、フランスの文化作品ではなくこちらを支持するというようなことがなければフランスやその地方のアイデンティティは失われるようなことはないと考えていた。つまり、フランスの人々が輸入作品を支持し、フランスの文化作品に興味を持たないというならば、それは仕方がないことで、そもそも国や地域のアイデンティティとは、その構成員ありきのものであるからして当然だと言えるのではないかと思っていたのだ。言語も伝統的文化と言え、同様に人々が有用性や価値を見いだせないものは、フランスの文化政策の理由においては、消滅しても仕方がないと考えていた。また、現在の言語に至るまで消滅してきた言語があること、様々な変化を経て現在の言語が存在することがその証明であるとも考えていた。しかし、第一回レポートの結果の中で、“「英語」が「共通語」と化してきたのには、アメリカが中心となってグローバルな政策を広げていったからに他ならない。”という文章を読んで、はっとなった。上記の様な考えはグローバル化を当然視した上に成り立つもので、それはもうすでにアメリカ中心の考えを受け入れた上での考えにほかならないと気が付いたからである。 
 しかしながら、対内的文化政策においては共和主義によって特例はあるものの文化の多様性に消極的であるなど、フランスの文化政策には疑問が残ると感じている。
 

●「利便性」だけで他国の文化に完全に駆逐されることはないのではないか?

第一回レポートの結果は、言語帝国主義化に反対・賛成・中庸と様々な意見が見られて興味深かった。どの意見にも説得力があったが、各国で長い年月受け継がれてきたそれぞれの言語が、『利便性』のみを重視して他国の言語(英語)に完全に駆逐されてしまうことはないのではないかと私は考えていた。しかし別の立場の意見を読むことで、果たして本当にそうだろうかと思わされた。
 食文化についてはどうだろうか。
講義で紹介されていたようにフランスでは「味覚の授業」のような食文化の継承や、農業政策の見直しによって食の多様性や安全性を保とうとする動きが見られる。
一方日本でも平成17年に『食育基本法』が制定されている。これは『食』に関する諸問題について考えていこうといった趣旨のもので、自国の農業や食生活を守ろうと直接的に訴えているものではない。しかし変化した食生活の見直しは、本来の日本の食を見直すことにつながる。また具体的に食料自給率の低さに言及し、地産地消を推進する言葉も盛り込まれている。こうした『食育』の考え方は国家が率先して打ち出したというよりも、生活習慣病の増加や食の安全といった問題に国民が強い関心を持ち、行動を起こしたことによって生まれたものである。
 フランスの文化保護政策は、言語にしても食にしても国が率先して保護に乗り出した印象が強い 。しかし日本においては国の対応がないために、2つの文化の扱われ方に差が出ている。カタカナ言葉が蔓延していることに対しては大きな社会の流れとなるような反応は起きていないのに、食に関してはそれが起きて法律が定められているというのは非常に興味深い。このことから考えると、国家主導で保護しなくても、国民が本当に必要としているものは自然に保護されるようになっていくのではないかと思われる。国民にとってそれまで受け継がれてきた文化が一番合っているなら自国の文化が残り、より適した文化が入ってくればそちらが取って代わるのだ。

●フランスの味覚の授業と日本の食育の違い
フランスは言語だけではなく、食文化にも力を入れていることが授業を通じてわかった。食が画一化されることへの強い抵抗や、遺伝子組み換えへの反対、食材そのものを大切にする心。遺伝子組み換え食品への抵抗感は我々日本人にもあるが、食が画一化されることについてはそんなに抵抗感はないように思える。マクドナルド、ケンタッキーなどファーストフードの代名詞とも言える店の商品を我々は好んで食べている。クリスマスにはみんなフライドチキンを求め、ケンタッキーに行列ができるほどである。それほどにまで日本ではファーストフードが浸透している。フランスでも好きな人はもちろんいるだろう。しかし、抵抗感を抱く人々の強さが日本ではありえないかな、と思うくらいすごかったように感じる。なぜ、日本とフランスではここまで異なるのだろうか?まず、文化を創ってきた過程があまりにも異なることから生じるのではないか。第一回目のレポートの結果にもあったが、日本は明治維新より、急速に海外の文化を取り入れ、自国を発展させた。取り入れられるものは可能な限り自分のものにした。一方フランスは外部から取り入れるのではなく、一から自らが創造し、発信もしている。外部から取り入れた国日本と、内部から創造し発信したフランス。この違いが今の食文化、また言語などに対する意識の違いに現れているように思う。日本では文化政策として“食育”に力を入れるべきだと言う意見もある。では、食育とは何なのか?味覚を育てることなのか、栄養バランスのとれた食事を学ぶことなのか…どこに焦点を当てるかで異なるとは思うが、フランスの場合味覚が重要視されているように感じた。

●フランスの食文化とドイツの文化政策から学ぶこと

今回、私はフランスの食文化、地域文化の講義を受けてフランスの「こだわり」についてとても興味深いと思った。特にその「こだわり」を顕著に感じた授業内容は「ミシュランガイド」についてだ。フランスの人々は食べることについて、雰囲気、味、旅行してまで食べる価値がある場所などといった、あらゆる角度からレストランを見て、評価しようとそもそも考え付いたことが驚いた。フランスでは言語の面でもトゥーボン法を制定し、言語を文化と捉え、守ろうとする文化水準が高い。食も同様に、フランス人のあらゆる文化においての水準が高いということに改めて興味深いと思った。

  ちょうど授業でミシュランガイドについて勉強した直後、ニュースで「ミシュランガイド東京2009」が発売されることを知った。同ニュースで、ミシュランガイドにお店が載るのを断ったという伝統的な日本料理屋はインタビューで「文化背景の違う外国人に日本の食が計れるはずがない」と言っていた。食に自らのこだわりや文化を感じないまま、ミシュランガイドだけに従ってしまっては、食に対する本来のこだわりを履き違えてしまう人が増えてしまうだろうと思った。それは、日本でもフランスでもいえることではないだろうかと思った。

   前回のレポートで言語について興味をもち、今回私はドイツの「ゲーテ・インスティトゥート(ドイツ文化センター)」というドイツの文化機関の世界各地で活動を行っている文化政策について調べることにした。このゲーテ・インスティトゥートは海外でのドイツ語普及と世界の国々とドイツとの交流を促進し、文化、社会、政治の面においてドイツ全体像を世界に紹介している。この政策はゲーテ・インスティトゥートが支援するセンター、文化団体、図書館、語学教育センターのネットワークを通じて文化・教育外交政策の中心的な政策であり、ドイツの公的および民間の文化組織、州、地方自治体、経済界のパートナーとしても重要な役割を担っているという。このようにみてみると、グローバル化が進んだ今、日本も自国の文化を公的な協力を得て行っていく必要があると改めて感じた。そして、公の場からも文化を支え、日本人が日本の文化を意識していくことが大切であると思った。上で述べたミシュランガイドの件からもいえることだが、外国人に日本の文化を理解されないまま、ミシュランガイドのような世界共通の基準から日本の文化を捕らえられてしまうと、外国の基準を押し付けられることも考えられる。私たちが文化に対してもっと積極的に興味をもち、こだわりを見出さなければ、私たちの文化は外部からの基準を押し付けられ、内部にまで侵食し、本来の文化が失ってしまう可能性があるという危機感を感じた。そのために、日本は積極的に文化政策、特に言語、伝統文化について力を入れていくべきだと考える。

●日本とフランスの文化政策の違い

これまでの講義を受けてきて、フランスがどれだけ自国の文化を大事にしているか、誇りを持っているかがわかった。特に食に対する意識の高さには関心させられた。そしてそれと同時に、やはり自分の中で日本はどうなのだろう、日本と比べて…などと自然と比べようとしている自分に気がついた。そこで今回、フランスと日本の文化政策の比較をしてみたいと思う。
○フランスの文化政策

 国が国家予算の1%を文化予算として投じるなど、国の文化に対する援助が大きい。国内の文化政策は文化省がとり行っている。“文化”の定義を幅広く理解しており、映画=芸術作品と捉えることはもちろん、最近ではサーカスや大道芸、服飾や人形劇なども財政支援の対象となる“文化”とされている。また、CNC(国立映像センター)による映画振興政策、海外への流通促進、外国映画の放映規制など、国内の映画に対する支援も大きい。税制面でも、個人の芸術家(オリジナル作品の作者で、独立自営、商業的な芸術活動をしていない造形芸術家)には税制上の優遇措置をとるなどの支援がある。 
○日本の文化政策 国家予算の全体予算の中の文化予算の比率は0.1%しかない。国として文化を支援する体制があまりない(伝統的な文化財の保護に対しては万全を期しているが)。芸術家のための支援としては、新進芸術家の海外留学、研究事業や新人コンクール等への支援、世界トップレベルの海外の芸術家(指導者)の招聘の実施などがある。 
 こうして比較してみると、フランスが文化に対して国としてどれだけ力を入れているか、また自国の文化をどれだけ大事にし、誇りに思っているかがますますわかる。それに対し、日本は海外留学の支援や世界トップレベルの芸術家を海外から招聘するなどと、芸術活動の場を海外に移すことに視点をおいている気がする。まるで自国よりも、海外の方が芸術が進んでいると認めていて、自国の芸術に対して自信がないように感じられる。もっと、自国における自国文化の育成に力を入れてもよいのではないかと思う。世界トップレベルの芸術家を海外からではなく、日本国内で世界トップレベルの芸術家を何人も排出できればよいのではないかと思う。 フランスは、文化を広く捉え、文化を人間の心を豊かにする大事なものと考えている傾向が強いと思われる。日本は、フランスでは文化として認められるサーカスなどは、ただの“娯楽”としてしか認識されていない。この文化に対するそもそもの理解の違いが、国全体の文化政策の違いに表れているように思う。

●盲目的に他の文化を受け入れることは危険だ 
第1回レポートの結果を見て、私と同じように、世界が一言語化してしまうと、文化や思想などが単一化されてしまうのではないかと危惧する意見が多くあった一方で、英語が世界共通語となるメリット、トゥーボン法に対する市民レベルから考えた意見などを読むことができ、大変興味深く思った。また再び自分の考えを整理したうえで、私は、言語が文化と深い関わりをもつという点から、英語の使用者が、自国、そして英語圏の文化に対してより明確な意識をもって英語を使うことを心がけることが大切であると感じた。そうすることにより、英語圏の文化・思想に侵食されるのではなく、他国の文化を受容するための便利なツールとして英語を使うことができると考える。一番避けるべきは、「無意識」に言語を使用することによる文化の画一化なのではないだろうか。

●共和主義のジレンマ
 フランスの中にそれぞれ独自の文化を持っている人々がいることも興味深かった。フランスという国にいながらも、自分たちのことをフランス人であると思っていない人々、彼らがいることは少なからずフランスの文化政策に影響を与えていると思う。フランス政府がしきりと英語を排除しようとしたり、フランスの芸術・食文化を必死に守ろうとしているのは、いわゆる「地域文化」を持つ人々にフランス独自の文化を印象付けたいという思いがどこかにあるからではないかと思った。フランスは厳重な共和主義であるため、どんな文化を持つ人々も不平等な立場にしてはならない。だが、異なる文化をもつ人々が一つの国の中で平等に暮らすにはお互いを認め合い、多様性を受け入れていかなければならない。フランスは多文化主義を否定しているものの、フランス主導のもとで統合を進めているヨーロッパの国の多くが多文化主義を認めている。これは共和主義のフランスが抱えるジレンマが現れたものではないだろうかと思う。フランスの華やかな文化の陰に共和主義の矛盾があることも分かった。 

●フランスとアメリカの文化政策比較
 
ハリウッド映画に芸術性があまりない、というわけではなく、経済効果を重視することが一概に悪いとはいえない。フランスに比べ外国の文化にも開放的な面は、アメリカの評価できるところである。だが、メディアが注目するような有名な人や作品でなくても支援される機会が多いフランスのほうが、良い芸術の在り方だと感じた。 

●単に「閉鎖的・排他的」なだけではないフランスの文化政策
第一回レポート結果を見て、フランスの文化政策は、やはり万人に理解されるものではないことを実感した。それは、フランスのとる政策が一見、極端なものにみえるからではないか。フランスは自国の文化や伝統をとても重んじているがゆえに、閉鎖的で近寄りがたく思えてしまう。言語政策にしても、国内で英語をなるべく使わないようにするというスタンスは、受けとり手によっては、アメリカやイギリスを暗に批判しているようにも取れるし、食に関してもミシュランのレストランランク付けなどによって厳しく排他的な雰囲気を感じたりするのではないのだろうか。

 しかし、そう思う一方で、私にはフランスが羨ましく見える。私たちが住んでいる日本には、ここまで強く文化や伝統を重んじる風潮が無いように思えるからである。日本でも、日本固有の文化や伝統を保護し、残していこうとする試みは多くあると思うが、グローバル化の波に押されて外国文化の浸透は拒むことのできないものになっているのが事実だろう。第一、日本人にそこまで日本固有の文化を愛す心があるかどうかも疑わしい。フランスのように自分たちの国に誇りを持てているだろうか。私たち日本人は、次々と便利なものに飛びつき、受け入れてきた。歴史を遡ってみると、日本人は言語や文化を中国など外国から取り入れ、日本固有のものと混ぜ合わせるという柔軟な姿勢で歩んできたのだから、それは当然のことと思うかも知れない。しかし、このままいけば、日本に、日本を感じさせるものがほとんど無くなってしまうのではないかと私は不安である。よく、留学に行った日本人が「外国に行って初めて、自分が日本のことに無知だということに気づく。」というようなことを言っているが、そのような事態は日本人の自国に対する根本的な意識の低さから起こるのではないかと思う。このような点で、私たち日本人はフランスに学ぶところが多くあると思う。フランスでは国の政策から、自分たちの文化に誇りを持っていることがありありと分かる。ただ、閉鎖的・排他的なだけなら考え物だが、英語など、他の文化の重要性・必要性を認め、自分たちの文化がかき消されてしまわないようにしながら取り入れようとしている。このようなフランスの姿勢をみると、手放しで外国文化を受け入れている日本人は、自国の文化が失われる危機に瀕していることを自覚し、もっと自国の文化に誇りを持つべきだと私は思う。

●言語政策から見る民族意識〜フランスとアメリカの言語政策比較から〜
授業を通じフランスの言語政策、とりわけ英語がフランスに浸透すること、つまりそれは英語を単なる言語としてではなく一種の文化であると考えるならば無防備にそれを習得し、外国語として受入れ続けるならばつきつめるところイギリスやアメリカなど主要英語圏の思考・価値観・イディオロギーにフランス語、文化そしてフランス自体が“浸食”されてしまう恐怖が裏に潜んでいることにたいする脅威からうまれたものであり、フランス語を積極的に政府の政策として保護していく取り組みである。今回視点を変え、主要英語圏であるアメリカでの英語に対する言語政策および近年急速に増加しつつあるスペイン語使用に対する言語政策を見ることで、「世界の共通語」と言われる英語・母国語国の中で起こっている葛藤と政府政策を比較したい。 
アメリカでは英語が母国語でありその地位は確固たるものであるという伝統的な考えは1980年代以降通用しなくなってきた。なぜなら移民による多民族・多文化社会という背景のもと特にスペイン語の脅威が大きくなり今では英語を読み書きできない人も多く居住しているという現状である。またラティーノと呼ばれるスペイン語系住民がもっとも多いカルフォルニア州では二言語使用教育(英語及びスペイン語)と英語公用化運動双方の運動が特に活発であるがそれはフランスなどと違いアメリカには連邦政府に確固たる言語政策が存在しないため言語政策自体が各州の裁量に任されているためである。今のアメリカ社会は多民族・多文化社会というアメリカそれ自体の持つ根本的な歴史・文化的背景のため、英語を主要な言語として確固たるものにしたい英語母国語話者と多文化社会ゆえの多言語社会を認めた上での英語以外の言語の保持を主張する者の間で葛藤が起きているといえ、さらに連邦政府による統一的な言語政策が存在しないことがそれに拍車をかけているといえるであろう。
 フランスの英語、アメリカのスペイン語。マイノリティと見なされている言語に対してマジョリティとして浸透する言語が前者に対して脅威となるまで力を持ったとき、マイノリティおよびマジョリティ双方に対してどのような言語政策をとるのか、さらに国のそれとして制定するのか裁量にまかせるのか。フランスとアメリカのどちらの政策を選択するかに正解は存在しないように思う。しかしどちら側でも言語を文化として見るときそれは自分の培ってきた物を浸食する脅威に感じるのは自然な反応であるし、それにより自己と母国語を一層結びつける要素になるであろう。言語がそれを母国語とする国・地域から拡大することは、グローバル化の一種の結果であるしそれは現代社会では避けられない。それゆえ言語を文化と見なす際それに優劣を付け言語政策として保護・拒絶することは当然認められる権利であるが、視点を変えコミュニケーション・ツールとするならばその拡大を受け入れ発展のため利用しないことは現代社会ではおそらく不利になるであろうし、何より自分や国を狭めることに繋がるであろう。


●フランスは外国文化や外国語を排除しているのではない。自国語や文化の教育に先立ち外国文化や言語を教えることは「阻害」という意見には賛成できない。

前回のレポート結果で、日本での初期英語教育導入について反対意見が多いことに驚いた。その理由として最も挙げられていたものは「外国のことをやる前に、自国の言語・文化を学ばなくてはならない。」というものであったが、私はそのようには思わない。 日本における外国語学習(主に英語だが)の指導要領が先日発表され、高校の授業で英語のみによる授業、読み書きよりもコミュニケーションに重きを置いた内容へのシフトチェンジなどが主要項目だが、教員の負担増や現実的な運用可能性など賛否両論が飛び交った。可能不可能はさておき、この目標設定には賛成でる。だが、やはり高校における改革だけではなく、私は初期教育での英語教育は必要であるという立場である。幼少期に外国文化に触れることは好奇心の形成にもつながるし、ひいては他国との比較によって自国文化をより鮮明に意識することができるのではないか。 
 一方、2001年に欧州連合において「加盟国全ての言語が公用語」という内容が確認され、英語帝国主義を見直す風潮が広がっている。授業でもフランスは英語の世界共用語化に反対していたし、地域語問題などを含め反多文化主義的である側面を見た。しかしながら、それら欧州の初等教育では第一外国語の必修化を行っている国はたくさんあるし、フランスでは小学校三年から外国語教育が義務化されている。さらに2005年から幼稚園での外国語または地域語の導入がなされているし、中等教育では第一外国語として英語、ドイツ語、アラビア語などのほか、第二、第三言語の教育も受けることができる。 授業でフランスは愛国主義的で英語文化圏の侵食を嫌悪しているかのようなイメージを受けたが、それでも他国の言語及び文化に対する教育は初期段階から行われているのである。 日本は外国語教育を行う前に自国文化をさらに学ぶべきという意見も最もであるが、フランスは外国文化を学ぶことによって自国文化の大切さ、例えばフランス語保護政策など、を学ぶことができるのではないだろうか。そのような姿勢こそ学ぶべきであると思う。 

●共和主義フランスと多文化主義カナダの比較
共和主義を謳っているフランスにおいても、やはり食生活や音楽・芸術などに関してはそれぞれの地域独自の文化が存在し、特にコルシカ島ではコルシカ特有の文化が色濃く残っていることがわかり、その内容もとても興味深いものであった。しかしその一方、フランス政府は多文化主義を真っ向から否定している。コルシカに対しては、言語や文化の保護・奨励政策は認めたものの、コルシカ議会の立法措置についてはフランス国会にその措置を依頼する権利を与えるにとどまり、自治権(立法権)を付与するにはいたっていない。フランス国内で使用される言語についてもフランス政府は強硬な政策を行なっている。公共の場ではフランス語以外の諸言語を使うことを禁じ、フランス語以外の諸言語を「パトワ」とし、非近代的・反フランス的なものであるとみなすという。これにより、特定言語の話者にのみ権利を与えることを防ぎ、その言語の話者でないフランス人民との間に不平等が生まれることを防ぎ、フランスの平等主義を貫くのである。こうしたフランス社会とは対照的なのはカナダの社会である。1971年、カナダは世界で初の多文化政策を導入した国となった。さらに1988年、「カナダ多文化主義法」が制定された。そこに列挙された理念や具体策は、まさに文化の自由と多様性の強調から社会的な公正と平等を目指すものであった。多文化主義はカナダ社会の基本的特徴にもなっている。閉鎖的で単一的な政策をとるフランスと、開放的で多元的なカナダ社会。一見すると、カナダのほうがヒトやモノの移動がますます盛んになる現代のグローバルな社会に適応しているかのように思える。多民族共同体の個別性を公に承認し、その共同体の共存、集団をもってカナダ国家とするこの多文化政策は、先見の明のある現実主義的な政策ではないか。しかし、よくよく考えてみるとそうとも言い切れない。多文化主義だからこそのデメリットが存在するのだ。たとえば、さまざまな文化が混在する社会に住むカナダ人は、カナダ人としての自覚、誇りの拠り所はあるのだろうか。多様な文化をもった人々が自文化を保持しながら生活する社会では、自分たちの民族意識を抱え込み、周囲との相違・差異を解消することなく、分裂状態のうちに孤立を続けがちになるのではないだろうか。そうなればカナダという国が固有の意味をもたず、権力の集中、モラルの規制、コンセンサスなどが得られにくくなってしまう。ここに多文化政策の限界があると思う。民族独自の文化を認め、その育成を奨励するとまで言いながら、移民が大量に流入するという現実に直面し、民俗文化のうちに含まれる多種多様性な風俗、生活実態のすべてを公認し、ましてやその強化を支援するなど、現実には非常に困難であり、理想主義的だと思った。 このように、フランスの政策とカナダの政策のどちらが現代社会において有効かなどは一概には言えず、こうした社会政策は非常に難しい問題だと改めて感じた。

●日本人が日本語に対して無策な理由

 第一回レポートの言語政策に対するみんなの意見を読むと、意外と英語教育の義務化に賛成という人が多かったことに驚きました。私も小さい頃から勉強していれば・・と思うことはありますが、本当に必要だと思うなら今からでも自分の意思ですれば良いのでは?と思います。言語圏に関する授業を受けて、やはり英語が使われている国もとても少なく、世界が一つの言語で統一されることなんてないし、英語が話せなくても問題は無いと思いました。ただ日本で生活していくなら一番身近な外国語は英語なわけで、ある程度英語を知っていれば歌詞の意味が分かったり、食べ物や衣類など様々な製品に格好よく書かれている英語を読めたりするので、その点では得かなあと思います。またある人の意見で、英語という言語が世界に広まることと、思考が単一化するということは別のことというものがありましたが、私もそうだと思います。同じ言語を使うからといって同じ価値観を持つようになるわけじゃなく、だから一つの国の中でも争いが絶えない現状があって、言語と思考の問題は関係ないと思いました。日本でも伝統文化を大切にし、学校でも何かを鑑賞したり作ったりして、日本の伝統文化に触れる授業があります。また正しい日本語を学ぶクイズ番組が一時期流行っていた時期もあったと思います。しかし日本では、今のところは日本語を守ろうというそれほど強い動きはありませんし、フランス語ほどに日本語の危機は感じられません。それは、日本では海外との関係でどうこうよりも、日本人による日本語の変化−例えばギャル語やオタク語など−が激しいからではないでしょうか。外からの影響によって変化させられることには抵抗感が強く感じられるかも知れませんが、自分たちの手によって変化していくのであれば、日本語を守らなければ!という強い動きはあまり出てこないのだと思います。また日本では、むしろ新しいものをどんどん取り入れようという態度が強く見られて、例えば外国から入ってきた言葉も、昔は日本語に直していたけど今はそのままカタカナ英語で使われているし、フランスと比べて日本は変化を受け入れやすいところがあると感じます。フランスの食文化に関する授業では、ミシュランがそんなに強い影響をもっていたと知って驚きました。日本も世界の中でもランキング好きな国だと思いますが、その結果の反映のされ方がフランスでは極端だと思いました。服や音楽の選び方も、流行に左右される傾向が強いのでしょうか。

●なみなみならぬフランスの言語文化政策
 フランスがかたくなに守っている自国の文化には講義のたびに驚かされる。美食大国と呼ばれるフランスのレストランの歴史が日本より浅いことは予想外すぎた。そもそも貴族たちの間だけで大食を美としていただけで、一般市民は質素な食事。しかもその貴族たちが食べていたのは少量の炭水化物と大量の肉。盛りつけはともかく、食べ方はとても汚かったそうだ。革命により料理人が一般市民向けに料理を出す店を開きはじめたことから広まったレストラン。今まで持っていたフランスの食文化のイメージが一気に変わった気がした。今では完全に優雅な食文化のイメージのフランス。そうなるまでのシェフの努力やミシュランの動きなど、とても興味深い。そして、その文化を守り続けようとする活動はさらに興味深いものである。

  食文化以外に今フランスで守られんとしている文化といえば言語である。移民の増加による問題や、世界的に影響力の強い英語によってフランス語文化が損なわれるのを防ごうとしているのである。その政策はトゥーボン法をはじめ、かなり徹底したものだ。同じく大量の移民が問題になっているアメリカでもやはり自国の言語について話題になっている。英語が圧倒的に優位の言語であるのはかわらないが、スペイン語圏からの大量の移民によってそれを脅威に思い、英語を公用語にしようとする運動が1980年代から始まった。その中で憲法を修正し、英語を「国家語」に制定しようとする運動をイングリッシュ・オンリーという。これに対して、英語以外の言語を母国語とする人々の言語や文化も保持すべきであるという立場のイングリッシュ・プラスも結成された。しかし、イングリッシュ・オンリー派とイングリッシュ・プラス派の両者とも、主言語は英語であるという意見で一致している。このように自国の言語文化を守ろうとしているアメリカだが、連邦政府としての統一の言語政策は何一つとしてない。あるのは一般市民にたいして与えられるその時代の社会、経済状況、教育機関や議会の影響による言語選択だけである。よって、アメリカの言語政策は結局市民任せということになるのだ。

  こうして比較してみると、やはりフランスの言語政策には並々ならぬ姿勢を感じる。ただトゥーボン法のように、多言語を排除している、閉鎖的と思われがちだが、それは間違いだということを理解しなければいけない。言語は文化。その国独特の文化があってこその国。ならば、多少多言語の受け入れを拒否してでもフランス語を押し通すのはごく当り前のことではないか。自国の文化を守るためのフランスの興味深い政策にこれからも期待している。
 

●フランスの掲げる文化的多様性には納得いかないが、政策自体は見習うべき
日本には映像文化を特別保護する政策はないと思っていたため、フランスの文化特例の国内映画保護政策に興味がわいた。 そもそも、日本の文化政策、とりわけ映像文化の保護政策は何があるのだろう。文化庁のホームページを見ると、「魅力ある日本映画・映像の創造」「日本映画・映像の流通の促進」「映画・映像人材の育成と普及」「日本映画フィルムの保存・継承」、収集、保存、上映などの施策がある。日本の映画保護政策は、映画を作る・見せる側の支援や映画祭・芸術祭に重点をおいているようだが、あまり力を入れているようには思えない。 これに対してフランスではTSAのように映画館入場料やテレビ局、DVDに課税するなどの徴税による保護を展開している。講義中に見た映像資料に個人が経営する小さな映画館が出てきたがその映画館もこれらの税収によって支援されていると言っていたと思う。小さな映画館が危機にあるのは日本も同じだが、日本の場合はそういった支援がないためにその数は減ってきていると感じている。私の地元にあったいくつかの小さな映画館は、大手配給会社のシネマコンプレックスが出来てからなくなってしまった。小さな映画館を巨大資本から守るためにはフランスのような施策も必要なのではないだろうか。 しかし、フランスの文化に対する考え方に納得できたわけではない。講義でも学んだが、文化の多様性、自由、平等を実現するための文化特例は共和主義に依拠している。しかし、フランスや欧州の映画以外に対しては門戸を閉ざそうとする姿勢は逆に多様性を否定している。文化特例は共和主義でありながら多様性を否定しているという二重構造にある。 国内の文化を守ることと他の文化を拒絶することは同じではない。また、文化は他の文化から影響を受けることで更なる発展をしてきた。もちろん日本の国風文化のように、外国との交流を途絶えたために発展した文化もあるが、それも前提に唐の文化の流入がなければ発展し得なかったかもしれない。だから、国内の文化を発展させるために他の文化は差別するという考え方は、かえって文化を貧困化させるのではないかと思う。 ただ、今のフランスでは英語の作品がテレビでも押し気味であるというから、そうした中で消えそうになる文化を守ることは必要であると思う。フランスの文化的多様性の論理には納得できないが、その積極的な文化施策は見習うべきであるというのが私の結論である。 

●ミシュランが日本社会になにをもたらすのか?
最近、早くもミシュラン東京版の二冊目が出版された。昨年は連日ワイドショーの話題に上がり、売れに売れた。ご当地フランスでは料理人が文化人のような扱いを受けるというが、二冊目が出版された現在、『料理の鉄人』のような番組が復活したわけでもなく、あまり表面化された動きはない。二冊目出版に当たり星が落ちて自殺、のような事件も起こっていない。不況の今、ミシュランは不謹慎すぎると言うことなのかもしれない。これからミシュランが日本に根付いたとき、どんなことが起こるか、フランスとどのような違いが見られるのか、見守っていきたい。 日本いがいの国にもあると思うが、「行きつけの店」という言葉がある。「いつもの」と一言いうだけで(僕は恥ずかしくて言えないけど)、お目当てのメニューが出てくる店のことだ――テレビドラマで使い古された光景。そういう店がミシュランに載ることはよもやあるまいが、もし載ったとして、常連さんはいい気がしないだろう。常連さんにとってその店は「聖地」であって店の主人は「親父」であり「おふくろ」だ。その「聖地」に新参者がミシュラン片手にやってきたら対立は必至だ。当然そんな所帯じみた店にミシュラン調査隊は潜入しない。ミシュランの陰の部分でひっそり生き続けるだろう。物事には常に良い面、悪い面が当然ある。芸術肌の料理人が文化人並みに評価されるようになれば日本(料理界)にとって革命であり、非常に良いことだ。ただ食に厳しい日本で星を下げることがフランス以上に地獄を意味することも確かなのだ。人のような扱いを受けるというが、二冊目が出版された現在、『料理の鉄人』のような番組が復活したわけでもなく、あまり表面化された動きはない。二冊目出版に当たり星が落ちて自殺、のような事件も起こっていない。不況の今、ミシュランは不謹慎すぎると言うことなのかもしれない。これからミシュランが日本に根付いたとき、どんなことが起こるか、フランスとどのような違いが見られるのか、見守っていきたい。日本いがいの国にもあると思うが、「行きつけの店」という言葉がある。「いつもの」と一言いうだけで(僕は恥ずかしくて言えないけど)、お目当てのメニューが出てくる店のことだ――テレビドラマで使い古された光景。そういう店がミシュランに載ることはよもやあるまいが、もし載ったとして、常連さんはいい気がしないだろう。常連さんにとってその店は「聖地」であって店の主人は「親父」であり「おふくろ」だ。その「聖地」に新参者がミシュラン片手にやってきたら対立は必至だ。当然そんな所帯じみた店にミシュラン調査隊は潜入しない。ミシュランの陰の部分でひっそり生き続けるだろう。物事には常に良い面、悪い面が当然ある。芸術肌の料理人が文化人並みに評価されるようになれば日本(料理界)にとって革命であり、非常に良いことだ。ただ食に厳しい日本で星を下げることがフランス以上に地獄を意味することも確かなのだ。

●芸術文化制作を「自由」と見るアメリカと「平等」と見るフランス
第1回のレポート結果を見て改めて感じたことは(受講者の皆さんの感想とはいえども)、フランス人は言語を単なるコミュニケーション手段としてではなく、国や地域の価値観を反映する文化そのものと捉え、尊重しているということである。それは、トゥーボン法や文化省フランス語総局新語委員会の存在からも分かることであるが、こと‘言語’という側面に止まらない。フランス国家予算内の文化予算比率を見ても、フランスは日本の約10倍である。また、日本がそれを主に古い文化財の補修に充てているのに対し、フランスが新しい芸術の支援に充てているということや、文化や芸術の商品化や資本主義化への反発を示す「文化の例外」論の台頭などからもフランスが積極的に芸術や文化と向き合い尊重し、保護していることが分かる。 だがその一方で、例えばフランス語高等委員会の設置やバ=ロリオール法の制定などに見られるフランスの英語規制は、単に母国語の保護を目的としたものであるとは私には思えない。というのもイギリス(アメリカもか)とフランスは、百年戦争や植民地獲得競争など歴史的にみて非常に浅からぬ因縁を持つ国同士だからである。いわゆる‘フランス人の英国嫌い’が英語規制にある程度の影響を与えていると私は思うのである(第1回のレポート結果にあった話からも)。
 それでは、グローバル化の主導国ともいうべきアメリカの文化政策はフランスの文化政策とどう違うのか。例えばハリウッドやブロードウェイのように、アメリカの文化や芸術は基本的に産業化されているため、エンターテインメントの要素が強く、主に大都市や観光地に集中している傾向がある。また、フランスでは文化政策の主体がいわゆる文化省やルーブル美術館のような国立の文化施設であるのに対し、アメリカでは文化活動の担い手は主に市民団体やNPOである。その為、アメリカの場合はフランスの場合に比べて、観客と文化施設への寄付者の意向を汲んだ運営がなされるのである
 このように、フランスの文化政策では、国家や政府が文化や芸術部門に直接、ないし大きく関与・保護している一方で、アメリカの文化政策では、文化の担い手や受け手の趣向や意思が尊重され、国家や政府はあくまで補助者に止まっている。この点で、両国の文化政策は大きく異なるのである。
 この両者の違いを受けてまず私が思ったのは、両者ともにそれぞれの国の思想や価値観が、文化や芸術の捉え方に対して非常に反映されているということである。それはつまり、アメリカのケースでいえば、政府や国家が文化や芸術のフィールドにあまりタッチしないのは、それこそアメリカの根本的な思想ともいえる“自由”が尊重されているからということであり、フランスのケースでいえば、“平等”という思想を唱えつつ自国の社会秩序や規範・文化を乱すものは排するという側面を持つフランス独自の“共和主義”が、国家や政府の積極的な文化・芸術部門への介入や保護という形で、明らかに表れているということである。少なくとも私にはその様に映った。

●フランスとドイツの文化政策比較 
フランスとドイツの文化政策について比較してみたいと思う。フランスの文化政策は、中央集権的で文化的地位が世界的にも高いと評価されているパリに文化に関する機関や施設などが集中している。国家予算も当然パリに重点が置かれる傾向にある。一方ドイツは、大小さまざまな都市として独立した自由都市としての歴史があることも関係して、文化政策の権限は大部分が各州政府や地方自治体などにある。これは、ナチス政権の下に文化の面でも強制的な戦略が進められたこと、国家的文化政策に対する反省も含まれているのではないだろうかといわれている。この比重の違いについて、私はバランスが重要だと考える。ドイツのように、地方に任せっぱなしでは、財政面などの面で不十分なのではないかと感じてしまうし、フランスように中央に権力が集中すると、地方がおざなりになってしまう。幸い、ドイツの場合、行政組織文化メディア庁という連邦政府において文化を担当する部署が設置されたし、フランスでも地方分権が進んでいる。中央と地方のバランスをうまくとった文化政策が必要であろう。

●文化政策の「文化」とは?
文化政策の“文化”とは、文化遺産や芸術作品のような有形の文化と、人間が社会の中で獲得した態度・習慣・思想・価値観・信条のような無形の文化の両方を対象とするものだと私は思う。現在、移民の増加や文化の多国籍化が進む中、こうした目に見えない文化や芸術が“国”という枠組みだけでは捉えにくくなっているのは確かだろう。問題にすべきなのは、自国に浸透してくる英語やアメリカ文化ということではなく、文化や芸術、あるいは食文化に代表されるような人命や倫理に関わることまでが、市場の論理で取引されるという、経済至上主義的なグローバル化なのではないだろうか。グローバル化が不可避な現在、フランスをはじめ多くの国々が直面する課題は、“文化的多様性”は「文化特例と文化帝国主義の対立を乗り越えられるのか」、ということではないかと私は考える。

●文化政策は「上から」均一的に推し進めるべきではない
フランスとアメリカの文化政策は真逆になっている。フランスの文化政策を「上から」のものだとすれば、アメリカのそれは「下から」といったところだろうか。第一回のレポートの感想に、英語が世界共通語になることはものの見方が均一になってしまうことを招くといったものがあったが、私はそれを読んで、フランスの文化政策にもそういった危険性が内包されていると思った。フランスでも近年、文化の地方分権の動きが起きており、中央に集中した文化政策にも亀裂が生じている。これは、「上から」の均一的な文化政策ではなく、「下から」にシフトしたいという願望の表れではないのだろうか。今までフランスでは、共和主義の考え方の中に文化芸術を置いてきてしまったことにより、文化が国家の道具のようになってしまっていた。それはきっと、文化を愛するフランス人にとっては耐え難い矛盾ではないだろうか。そろそろ、フランスにおける文化のあり方を考え直すべきだと思う。 

●共和主義フランスと多文化主義スペインの政策の違い
私は第一回のレポート以降の講義を受けて、私はフランスの地域的な文化の多様性にとても驚いた。なぜならフランスは、ド・ゴールの「300ものチーズをフランスという1つの箱に入れるのは難しい。」という言葉のように中央集権的な共和主義のイメージが強かったからである。
そもそも共和主義と地域主義は相容れない考え方だと思う。共和主義の言う所のフランス人民とは、男女、宗教、民族、言語に関わらず全ての市民を指すが、一方地域主義の言う所のフランス人民では、フランス人民の中に別の人民を認めていることになるので、共和主義の考えからすると不平等を引き起こしてしまうことになるのだ。地域主義が台頭してきていている今共和主義のあり方を考え直す必要があるだろう。共和主義の特例としてコルシカが講義でも取り上げられていた。コルシカについて私が驚いたのは、コルシカのみ地域政策の権限を与えられているということだった。「コルシカ人民」こそ排除されたものの、共和主義の枠組みの中で独自の権限が創設されたのはすごいことだと思う。私は今回フランスの文化政策と比較して、スペインの地域主義について述べたいと思う。スペインに限らずヨーロッパ諸国は多文化的主義的な国が多い。やはり現在の国の方針はその国の歴史に関係していると思う。スペインが多文化主義的な理由は、国土回復戦争の時代にキリスト教徒とイスラム教徒、ユダヤ教徒がかなりの期間にわたり、それぞれが自分たちの言語、文化、そしてもちろん宗教を守りながら共存しており、戦いの面では、地理的に相互に隔絶していたキリスト教徒の諸王国は、常に一丸となってイスラム教徒に相対していたのではなく、個々にそれぞれの「国土回復戦争」を進めていったことが直接の起源として挙げられる。私はフランスが良いとかスペインを始めとする他の国家が良いとか言うことはできないが、フランスはこのまま共和主義を貫くにせよ、この時代の流れに沿って様々な対応を考えていく必要があると思う実際コルシカの独自性や経済発展は現在のフランス共和主義の枠組みの中では見込めないのは明らかなので、どんなに地域主義が台頭していっても、他のヨーロッパ諸国や地中海諸国との連携を強めていく必要性はあると私は思う。

●コルシカ映画『沈黙』を観て
授業でコルシカの映画を見て一番に感じたのは、文化の違いの大きさだった。映画の中では、主人公が良心の葛藤にどんどん追い込まれていく様子が描かれていた。フランスからコルシカに来た主人公は、殺人の現場を目撃してしまう。しかし、コルシカでは仲間とのつながり、絆を最重視するという考えが根底にあるため、真実をみなに伝えるべきなのか深く悩んでいた。決心をして仲間に伝えたが、彼らはそれを賞賛するどころか主人公が真実を伝えたことに対して非難を浴びせた。彼らの考えは、犯人が仲間のひとりだと言うことで狩りの仲間の仲に亀裂が生じてしまうということだった。私はまず、罪を犯した犯人でさえ仲間扱いされるということに驚いたが、それより街じゅうみんなが犯人を隠しとおすということが、ひどく常識外れのように思えた。いくらそういう文化であれ、犯人は善悪の判断が出来ていない悪人なのだから、罰されるのは当然のように思った。しかし、それがコルシカ島民にとって当然のことだとしたらどうだろうということを考えてみた。私自身、留学生と関わる事が多いのだが、彼らはいくら騒いではいけない場でもそこの場を盛り上げ、楽しむことを一番に考え行動する。一緒にいる人間としては、楽しい反面少しどこか恥ずかしい気もする。こういうのを見て我々日本人が、外国人はマナーがなっていないと思うのだろう。しかし、それが彼らの文化であって、他の人に迷惑をかけない程度であるなら、認めるべきだと思う。だが留学生の場合は、郷に入っては郷に従えという言葉があるように、もう少し日本の文化に順応する必要があるように感じたが。話は戻って、コルシカ島の場合は少々問題が大きすぎるように思うが、これも文化の一部なのだと思った。

●美そのものの価値を重視するフランスと美がもたらす経済的価値観を重視するアメリカ
 講義を受けてきておもったことは、フランス人が基本的に“美”を重んじるということだ。基本的とは、周りや経済の多少の状況に左右されず、いつでも“美”という年頭を忘れていないということを意味したい。私たちは、芸術や“美”を付加的なものとしてとらえているように思う。しかし、フランス人にとって、芸術や“美”というものの価値は、決して付加的なものではなく、基本的な人間の在り方におおきにかかわってくる道徳のようなものではないのだろうか。その結果、公的にも市民のレベルでも、私たちの目からみたら、やりすぎのように見える文化政策や活動も、フランス人は平然とやってのける。
 このように、“美”のそのものに価値をおいているフランスとは異なり、“美”によって生み出される経済的効果に価値をおいて今、まさに文化政策を行おうとしているのがアメリカである。
 アメリカ現大統領オバマ氏は、芸術支援のプラットフォーム構築を目指したマニフェスト(「Champions for arts and culture」)を記している。ここでは6つの戦略がうちだされているが、中でも重視されているのが、芸術教育への再投資である。ここで注目したいのはその理由と目的がマニフェスト上で以下のように明記されていることだ。
 理由:「グローバル経済の中で競争力を保つため、米国はこの国を繁栄させてきた創造性とイノベーションといったものに、再び新たなエネルギーを投入しなければならない。そのため、我々は芸術教育によって培われる子どもたちの創造的な思考能力を育成すべきである」
 目的:「芸術教育の目的は芸術家を育成することではない。それが芸術家の誕生に結びつくこともあるが、芸術教育の真の目的は、この自由な市民社会において、生産的な生活を営める人間を育成することである」
 一方、フランスでは大統領ミッテランのイニシアティブによる「グラン・プロジェ」において大規模な文化機関が複数設立されたことにはじまり、「文化の民主化」を目指し、文化の概念それ自体を拡大化するための投資が行われている。
 このように、アメリカとフランスでは、“美”への投資の意義が根本的に違う。どちらにせよ、インセンティブが必要になってくることは確かだ。アメリカはそれを利益という明快でわかりやすいものに求めた。ここであらためて、道徳的に政策を進められるフランスに、“美”という観念の定着を感じた。

●フランス、カナダとアメリカの政策の中庸がいいのでは?
第1回のレポートを読み、多くの人は英語の利便性には肯定的であり、使えることができればより円滑なコミュニケーションをとることができる、という意見であったと感じる。フランスの言語防衛政策に関してもやりすぎではないかという意見のほうが多かったと感じる。しかし外来語というものに関してこれまで深く考えることもなく受け入れ、使用し、その一方「死語」といったかたちで数々の日本語が淘汰されていくのをただ漫然と見ていた私、あるいは私たちにこの講義を通して、フランスの言語に対する姿勢は、言語自体が淘汰される危険性、文化の多様性が失われる危険性に気づくきっかけとなった。ともすると杞憂かもしれないフランスの言語政策について、日本において議論し独自の言語政策を創設するべき時が来るのかもしれない。
 食文化や地方政策では共和主義というものに基づいていて、随所にその特異性が見られた。また言語政策と同様に映画やテレビのメディアの方面においても自国の文化を強く防衛する姿勢が見られた。
 フランスと同様にアメリカの文化流入に危機感を感じ、自国の文化を育てようと力を入れているのがカナダである。地理的にもフランス以上にアメリカ文化の流入が避けられない状況にあるので、危機感もフランス以上であるかもしれない。「流通支援型」助成プログラムなるものは、カナダ人の無名の芸術家に対して国が認めたならば多額の助成金による支援がなされるという半ば、金持ちの道楽的なことさえ感じるものである。また各国の大使館に芸術分野に精通している人物を常駐させ、カナダ文化の輸出の機会を常にうかがっているという力の入れようである。また実際の放映に関しても、例えば公共放送ならば、時間帯を問わずに60%以上はカナダ製の番組でなくてはならない、といったように非常にフランスの政策との共通点を感じる。
 おそらくアメリカ文化の拡大に脅威を感じているのは、フランスやカナダだけでなないだろう。日本は島国という特異な地形であり、他国に植民地化されたこともないので、これまで文化の侵食をあまり受けていないので、その脅威は直接我が身のようには感じられない。文化の防衛策はある程度は必要であると思うが、過剰になると切磋琢磨をし成長していくことがなくなってしまう。アメリカは民間主導による公正競争の促進でここまでの成長を果たしたということは事実であり、もちろんそのデメリットも十分に存在していると思うが、多くを学ぶことができると思う。防衛策か自由競争の促進かという問題は非常に難問であると感じる。各国の首脳にはエゴを捨て、両者のいいとこどりの政策を考えてもらいたいと思う。

●イギリスとフランスの文化政策比較
イギリスとフランスを、文化政策の点で比較してみたいと思う。現代イギリスの文化政策は、民間主導型のアメリカと、政府主導型のヨーロッパ大陸諸国との中間の形式だと言われていイギリスは、市民革命や産業革命によって世界に先駆けて近代国家を築く中で王家の力は制限されていき、他のヨーロッパ諸国のように特定の王族や貴族が芸術文化を庇護するのではなく、豊かな新興の中産階級によって支えられるようになっていったといわれる。 このような歴史的背景から、行政と文化活動とは一定の距離を保ち、自主性を尊重するという「Arm s Length Principle」(アーム・レングスの原則)の精神に基づき、芸術協議会などの中間的な組織を通じて、芸術文化の振興を図るという方式がとられている。国立博物館・美術館、芸術協議会などは、文化・メディア・スポーツ省が予算配分を行う一方で独立法人格を持ち、大幅な自主性が認められているのも特徴である。 一方でフランスは、政府が予算配分を行うと共に主導権を握り、フランスの文化政策に力を入れている。文化作品の輸出入や市場の原理に任せることへの抵抗は、国がフランス文化を保護している象徴ともいえる。質の高い作品に国家の支援が必要であるという考え方は、イギリスと大きく異なる点であり、やはりフランスの文化尊重の精神が表れていると考えられる。以上から、フランスは文化というもの全体(言語や食、芸術など)への尊重が世界の中で群を抜いていると考えられる。また、私はその文化が日本においても憧れのイメージとなっていると感じる。フランスほど文化政策に力を入れることは難しく問題もあるが、自国の文化を守る一つの例として、日本も努力をする必要があると感じた。

●フランスの「地域語」とギリシャの外国語教育政策
フランスでは公用語に加え、「地域語」という概念があることを初めて知った。地域語と聞くと、方言の一種なのではという感じがしたが方言の概念とは異なるようだ。地域語に認定されると小中高等学校などの公教育機関での教育や研究が認められる。また、1970年からは地域語が大学入試資格試験(バカロレア)の選択科目として出題が可能になった。しかし、地域語はその地域住民が日常的に使用しているわけではないという。例えば、コルシカでは週3回のコルシカ語の学習を行っているが、生徒は地域語を聞き、理解できても流暢に話すのは無理であるようだ。フランスで地域語教育が行われているといっても、地域語は英語やドイツ語、スペイン語などと同じ現代語科目として扱われ、不利な位置に置かれているため、十分とはいえない気がする。これに比べ、ギリシャの外国語教育はかなり充実し、徹底している。現代ギリシャ語というのはEU市民の3〜4%が使用する小数話者言語であるため、外国語教育の強化・充実がなされている。ギリシャでは1987年から小学校4年生(9歳)以上から英語が必修科目となり、下級中学校(ギムナジア)で英語に加え、第2外国語としてフランス語またはドイツ語の履修が必修となる。外国語の授業時間数は小学校では週3時間で年間270時間、中学校では英語・第2外国語それぞれ週2時間で年間180時間となっている。しかしながら、公立学校での外国語の授業時間数が外国語運用能力習得に十分ではないということで、大多数の生徒は私立学校で補習学習を行っているのである。
 このように比較するとフランスの地域語教育とギリシャの外国語教育の間にはかなりの差があるように感じた。地域語の価値を認め、それを守っていこうとする気があるのであれば、地域語教育を英語、ドイツ語などと同様に扱い、外国語と同じような位置づけにしておくのはどうかと思う。地域語を学ぶ生徒がもっと意欲を持って学習するようになればこの先、地域語教育に何らかの変化が訪れるかもしれないと思った。
 また、ギリシャの外国語教育には驚いた。国の単なる押し付けではなく、生徒のやる気も備わっている。日本でも小学校での英語教育の義務化が決定したが、ギリシャでは20年も前からそれが実施されていたのかと思うと本当にびっくりした。私自身は小学校からの英語教育の義務化には反対の意見をもっていたが諸外国でこのように早期の英語教育が行われているのなら、日本も行うべきなのかと思い始めてきた。 

●フランスの食文化とその政策について
フランスの食文化については、講義を受けるまで“フランスの食=高級料理”というイメージしかありませんでした。しかし、フランスでは貧富の差に関係なく誰もが食にこだわりを持っておいしく食べていること、日本でも起きているような食文化の危機がフランスでも起きていることを知って驚きました。その中でも特に、フランスで取り入れられている「味覚の授業」に興味を持ちました。日本でも近年、「食育」に力が入れられていますが、それは実践的な授業ではなく名ばかりで冷たい感じがします。それに対して地元の農家やレストランも積極的に関わるフランスの「味覚の授業」は、地域交流もできとても温かい印象を受けました。

 また、「ミシュラン」に代表されるランキングシステムは食にこだわり、食文化を大切にするフランスならではのものだと思いますが、そんなに格付けすることが素晴らしいかというと疑問が残ります。講義で、ミシュランの星を獲得したお店のシェフが自殺したという事件を知ってこれでは本末転倒なのではないかと思いました。 


 



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