フランスの言語と文化 第1回レポートまとめ(最終版

言語は民族や文化、そしてイデオロギー等に不可分であり、その意味で言語帝国主義は危険である。

映像に見られるように、世界の多くの国々で共通語としての英語教育が普及している。確かに、グローバル化した社会において、英語がコミュニケーションのツールとして機能するのは有用なことである。しかし、英語が話せるや否やで、人々の中に「勝ち組」「負け組」の意識が生まれている様子をみると、言語帝国主義の危険性を感じずにはいられない。本来言語に優劣というものは存在しないはずだ。共通語となっている英語の利便性は認められるが、だからといって英語それ自体と、英語が話せる人が優れているという短絡的な答えには結びつかない。現在の英語教育の状況をみてみると、各国はアメリカやイギリスに指示されて、英語の教育政策を実施しているのではなく、あくまで自国の判断によって自主的に組み込んでいると考えられる。だが各国で、母国語を英語に切りかえるという選択はほとんどの場合しておらず、それぞれが普段仲間や同じ民族間で使用する母語との使い分けを意識して英語を学び、使用していることを念頭におくべきであろう。 言語は、その国の歴史や文化を背負っているものであり、民族とかけ離して考えることはできない。また国や地域の価値観やイデオロギーに関わるものである。そのため、世界の言語が一元語化されることはアメリカやイギリスの思考を鵜呑みにし、多様性が失われるという心配もある。しかし、マイノリティを尊重し、多様性を守るためにも英語(共通語)の教育は必要とされる。社会的な少数者と呼ばれる人々や、宗教や文化が異なり、共生が難しいと考えられている人々にも、共通語によって意志や方向性を伝えると同時に、相手の話を聞くことができるのだ。また、今世界で何が起きており、何が議論され問題視されているのかを把握し、考えなければいけない機会はかなり増えている。アメリカやイギリスの考え方をそのまま受け入れるというよりはむしろ、大国の動きを知り、独裁に歯止めをかけ、自国の意思を表明するためにも英語は必要だと感じる。そのため、例えばフランスのように、英語教育を重視しながらも母国語を保護し、意識的に母語を使用することで、アイデンティティや多様性を訴えていく姿勢を失わないことも求められる。

英語の持つ多様性

英語には多くの姿がある。現在一番よく認められている英語の一面といえば、おそらく“世界の共通語”としての英語である。経済・政治・金融・学問。実に多くの分野で英語が世界の共通語として認められ、使用されているとこに疑いの余地はないであろう。そして、共通語としての英語が話せること。このことはこれからの時代、きっと今以上に重要になり、指標になっていくだろう。日本でも英語習得のため、小学校からの英語学習が導入され他のどの言語よりもその習得に比重を置いていることは明らかだ。そして、フランスでも新たに入ってくる英語をフランス語に置換したり、公共放送・販売物にはフランス語を使用することが決められてはいる一方リングァ計画により英語の教育は重視している。なぜなら、フランスだけが母国語に執着し、国民の英語習得が遅れることは国家として国際的な立場を弱め、世界情勢に乗り遅れることに繋がる恐れがあるからである しかし、他方で英語を無数に存在する言語の一つにすぎないと考えると英語の別の一面が見えてくる。言語が単なるコミュニケーション手段ではなく、その言語を話す国や地域の価値観・イディオロギーの表れであると考えると、無防備に英語を習得することはアメリカやイギリスの考え方を鵜呑みにしてしまう可能性も出てくる。英語には英語にしかない表現や言い回しが存在するように、日本語にも同様のことが言え、さらには言語それぞれに固有の表現や価値観を反映したものがほとんど必ず存在する。第二言語として英語を習得する者にとっては英語のそれらをそのまま吸収することは不可能であり、そこには何らかの葛藤やこじつけが生まれてくるのではなかろうか。英語が共通語としての地位を占めつつある中、英語のどの面を重要視するか、どこまで非・英語母国語者に受け入れられるか言語を価値観やイディオロギーの表れとすると今以上に英語の立場が複雑化するのは避けられないと考える。 

英語の統一は英語による言語帝国主義であり、賛成できない


私は英語による言語統一についてはいささか賛成することができない。なぜならそれは英語帝国主義になりかねないからである。英語帝国主義は英語使用者に不公正な利益をもたらし続けており、他方でそれ以外の言語話者に損失だけでなく言われなき差別偏見をもたらし続けている。国際社会のほとんどすべての分野で英語統一は着実に進攻し、完全に多言語使用を追いやって、もはや後戻りができない事態におちいっている。そのため必要に駆られて英語から多くを学ぼうとする人は多くといる。そしてそれはときどき、不合理な性質を含むことがある。例えば、韓国の場合を見てみると、英語の発音がよくならないという理由だけで手術が行われるそうだ。これらのことはあってはならないように思える。また、言語は文化である。英語統一することによって自国の文化が失われる可能性があるのである。これらを一種の植民地支配と考える学者もいるようである。またそれが英国・米国などの金銭面での直接の利益にもつながると思う。やはりそのような不公平はよくない。そしてこれは私が日本人であることが前提の意見であるが、わたしは日本語が一番使いやすい言語である。日本語にはたくさんの表現方法があるし、敬語や奥ゆかしさなどは日本語でしか表現できないと思う。よっていまさら英語統一と言われてもピンとこないし、進んで賛成することができないのである。

英語使用に制約をかけることは得策ではない
世界的なグローバル化に伴い、国際語としての英語が急速に広まっている。諸外国において、英語教育を幼少期から始めたり、義務的に学校教育に組み込むことも珍しくない。日本でも、小学校や幼稚園から英語教育を推進してきている。と同時に、英語が国際語として使われることが、文化への侵食・支配とみられる傾向もみられる。
 それが顕著なのが、フランスであろう。
フランスは言語だけでなく、食・生活・芸術・文化、なににおいても自国のものに誇りを持ち、それらが最高のものであるとしている印象がある。それらを維持していくために、言語においてはトゥーボン法や新語といったものを適用させてきているのだろうが、グローバル化が急速に進む今、フランス語のみの使用を国民に強いることは、はっきり言って難しいのではないだろうか。
 
日本においては、昔から当たり前のように外来語が存在しており、それをあえて日本語に言い換えるというのは至難の技で、違和感すら覚えてしまう。フランス国民にとっても同様なのではないかと思う。もしフランス国民全てが「英語排斥!フランス語バンザイ!」という思想をもっていたら話は逆だが、授業中に視聴した番組内での若者へのインタビューからすれば、常用している英語を今更フランス語に言い換えることはしないというのが現状だろう。
 はっきり言ってしまえば、フランス語が国際語になることはない。あっても5番手か6番手ぐらいだろう。それがわかっているなら、英語の侵食を拒むことなく柔軟に受け入れていくほうが、得策に思えてならない。

話せないのに無理に外国人に英語で応対する日本人、誰であろうとフランス語でしか対応しないフランス人
「英語ができないと負け組か?」という日本在住外国人への問いに対して、出身国別に意見がはっきりと分かれたのはとても興味深いと思いました。私は、共通語と言われる英語を話せないのは負け組だと思っていました。日本では、新しく外国から入ってきたものをそのまま英語で表現したりします。それはその方がニュアンスや意味合いが伝わりやすく、また日本語に訳しづらいからだと思います。しかし、英語ができないのは負け組ではないときっぱり言い切ったフランス人は、講義で学んだように自分の国や地域の価値観、イデオロギーを大切にしているというのがすごく伝わってきました。 日本人は日本に来たアメリカ人に対して、相手に合わせようとして無理にできない英語でコミュニケーションをとろうとすると思います。その一方で、フランス人はフランスに来たアメリカ人に対してきっとフランス語でコミュニケーションをとろうとすると思います。 英語はそれぞれ違う言語を話す人同士がコミュニケーションをとる上で有効な手段になるけれども、日本はフランスのようにもっと自国のことばや価値観を大切にし、日本語や他の言語との付き合い方をもう一度見直してみるべきだと思いました。

英語はどこでも通じるとアメリカ人の多くは考えているが、あまり共感できない
このビデオの討論を見て、出演していたアメリカ人の男性は、英語が世界どこでも通じる世界語だと思っているのだろうと感じました。英語圏に留学している友人からも、このような考えのアメリカ人はたくさんいると聞きました。確かにアメリカが世界の経済を引っ張っている現代社会で、英語が話せ使えることは必要不可欠なスキルになってきていると思います。私自身も今度あるTOIECテストを受けるし、周りの多くの友人も留学したりしていて、大学時代に英語を使えるようにならなければならないというプレッシャーを感じます。しかし、先生がおっしゃっていたように、世界各国で使われている言葉にはさまざまな伝統や文化の上にあるものなのに、世界中の人々が英語しか話さなくなってしまうのは独自の考え方や文化がなくなってしまうことにつながると思います。ビデオを見るまでは、「フランスも母語を守るために法律まで作って、何もそこまでしなくていいのでは」と思っていたのですが、改めて自分の母語の素晴らしさを感じ、伝統や文化を守っていくには、このくらいの法律も必要なのではないかと感じるようになりました。ビデオに出演していたアメリカ人男性よりも、フランス人男性の考えのほうにより共感しました。世界中の人がもっと英語を使うことによって、さまざまな国の人々とコミュニケーションをとることができるのは素晴らしいことですが、そのことによって、アメリカが世界をひっぱっていっていて、アメリカの考えがすべて、という考えが余計強くなるのでは?とも感じます。「英語が話せないと負け組」と言われるような社会は、個人的にはきてほしくありません。英語を使えるようになるよう勉強している一員として、いろいろなことを考えさせられました。

自国の言語や文化を防衛することは必ずしも他の文化に対して閉鎖的になるわけではない
今までフランスに対して、「愛国心が強く、かつ閉鎖的でフランス語しか話さない」という固定観念が強くあった。だが、『フランスの言語と文化』の講義を受けて、確かにフランスは愛国心が強いが、それゆえにフランス独自の文化を大切にしていることがわかった。
 言語でさえも単なるコミュニケーションの手段であると考えず、文化として守り続けていこうという姿勢さまざまなところで現われている。例えば外来語をあえてフランス語にすることである。また、フランス国内で販売されるものはフランス語を使用しなければならないと定められた「トゥーボン法」という法律までもあるほどだ。
 しかしこれだけを見るとどうしてもフランスは独自の言語しか大事にしない、やはり閉鎖的だと思いがちである。だが、一概にそうはいえないのではないか。EUの言語教育政策であるリングァ計画にフランスも積極的に参加しているからだ。つまりフランスは独自の言語を守りながら、EUの言語を会得することも重視しているということだろう。
 「言語は文化だ」どこかでそのような言葉を聞いたことがある。確かに言語には国や地域の価値観やイデオロギーが含まれているだろう。それを守り、後世に伝えていくことはとても重要なことだ。だが近年のグローバルな世の中では、意思疎通を図るために世界中で伝わる言語、つまり英語を会得する必要があるのではないだろうか。
 つまり独自の文化を守ることで、他のものに対して排他的にならず、かつ世界共通語を会得していくことによって、英語圏の人々の考え方を鵜呑みにするのではない。そういったバランスがこのグローバル化した社会には必要なのではないだろうか。

受験英語でないならば、小学校からの義務化は必要
 わたしは、小学校での英語の義務教育化に賛成です。それはわたしが英語をしゃべれなくて、もっと小さい頃からやっていればよかったなぁと思っているからかもしれませんが。小学生くらいの柔軟な脳を持っている段階で表音言語である英語の音に慣れておくというのが将来本格的に勉強しようと思った時にも役立つし、そうでない人にとってもマイナスなことではないかなと思います。 
 インドでは世界で通用する人間を育てるために語学に力を入れており、小学校1年から英語の授業が毎日1コマあるらしいです。だから、その教育を受けている人達は皆、同等の英語力を持っているとか。ビジネスは国内だけに留まらず、今や世界を相手にしないと競争に勝っていけません。日本がこれから世界で通用する人間を育てていくならば、やはり語学は重要になってきます。

  しかし、英語を早期から学ぶことによって母国語が疎かになることは避けなければなりません。また、受験英語の開始を早めるような内容になってはいけません。受験英語はわたしが中・高で習ってきた英語ですが、それは実生活にまったく役に立ちません。英語の文法を教え込むのではなく、英語に親しむ場や機会を与えるのが良いと思います。小学生の頃から外国語を学ぶことで世界に関心を持てたり、視野が広がったりしたらすごくいいことなんじゃないかなって思います。

フランスのような言語政策をとる国は珍しいのでは?
 フランスでは母語であるフランス語を守るためにフランス語の使用を法律で定めているけれど、そのような国は珍しいと思った。現在確かにいくつかの言語は消滅していっている。しかしそれはその言語を使用する母体数が少ないこと、その民族自体がいなくなってしまうことにも起因している。フランスは国自体も大きい上に、フランス国家以外の国、地域でもフランス語は使用されているのに、言語を守るために法律で定めた、ということが珍しいと感じたのである。


目的なき英語学習はやはり問題だ
 現代社会において、英語は世界共通語として、広く認識され各地で使われていることは現実としてあるわけです。その影響を与えているのは、やはりビデオの中でも議論されていたようにアメリカの経済力であったりすると思います。今日、英語を学ぶべきか、英語は必要かと言う問いに対して、私は否定しません。しかし、それは現状においてはという条件付に限ります。それを頑なに否定しようとすることは、自分の世界を狭めてしまうことにもつながってしまうと思うのです。だからといって、肯定もできるものではありません。言語帝国主義にあるような考え方になってしまうことは非常に危険なことだと思います。グローバル化が進む世界の流れの中で英語は、どのように扱われていくべきなのでしょうか。 ビデオを見ていて興味深かったことがありました。それは、アメリカ人などの英語圏に住む人たちにとって、英語はごく当たり前のことであって、言語に他の地域の人たちよりも価値観や文化、歴史といったものを感じてはいないことです。英語圏に住む人たちにとって、英語とは単なるコミュニケーションの手段の一つでしかないのかもしれません。しかし、われわれも含むその他の地域の人たちからしてみれば、言語にはコミュニケーションの手段以上のものが内在されているのです。そのように考えてみると。言語も文化の一つであると感じましたし、文化のようにグローバル化が進む中であっても守られるべきものだと感じました。英語はやはり、現段階においては学ぶべきものなのかもしれません。しかし、その目的を見失ってはいけないと思います。言語を通じて、文化、考え方といったものを理解するということです。英語を学んでいて損をするということはないと思いますが、そのせいで狭い世界、感覚を身につけることは避けなければならないことだと思いました。

英語が国際語であることに変わりないが、国家レベルでの確固とした言語政策は必要不可欠だ
 ビデオの中では、これからの世界では英語が力を失うか否か、中国語が勢力を強めるか否か、そのような討論が繰り広げられていたが、私は英語が力を持ち続けると確信している。航海の技術が発達してからは、貿易などの面で共通の言葉があったらどんなに楽だろうと、考えたに違いない。しかし、共通語の必要性が確固となったのは、戦後改革の最中であったはずだ。IT分野での革新的な開発が進み、国家間の貿易が多様的かつその量を増したなかで、意思疎通がスムーズになることは非常に重要だったのだろう。現代社会に必要不可欠なさまざまな技術は、戦後のアメリカで生まれ、成長を続けてきた。必要だからこそ、英語を軸にして改良が重ねられてきたのだ。IT分野を例に挙げたとして、私たちの生活はもはやそれなしではやっていけない状態まできている。これからの時代においてもIT技術の必要性は変わらないだろうし、それに伴って英語も普遍的に力を持ち続けるだろう。したがって、私は英語が世界共通語という国際的見解は変わらないと思うのだ。フランスの言語政策に関しては、ぜひ見習うべきことだと思う。フランス語を大切にして自国のアイデンティティーを守りながらも、英語の教育は重要視しグローバル化する現代社会にも対応している。アイデンティティーの保守を大切に考えるフランスらしさが強くあらわれている。日本は文化の独自性を保とうとする動きが弱く、英語教育のレベルの低さもよく指摘される。日本人であるという誇りを持ち、世界にも堂々と発信していけるような人材をより多く育てるには、国家全体での取り組みが不可欠であろう。

フランスの政策の方が、日本語をまともに話せない英語教育をしようとする日本よりも自然に思える
 いまや英語は「世界共通語」と呼ばれるほど、政治・経済などのさまざまな分野でなくてはならないものとなっている。英語が話せるかどうかは、その人の価値(ステータス)を表すものにもなってきており、海外で通用する人材になるには「英語が絶対不可欠」であるのは間違いない。 しかし、こういった「英語」の拡大の背景を探ると、アメリカが世界に及ぼす影響力がみえてくる。映像中、アメリカ人の発言にもあったように、「英語」が「共通語」と化してきたのには、アメリカが中心となってグローバルな政策を広げていったからに他ならない。アメリカは現在経済不振におちいっているとはいえ、アメリカ中心の経済システムはすぐには変化しないであろうし、「英語」が世界から落ちていくことは実に考えにくい。ここで「言語」のあり方を考えたとき、「言語の拡大=その母語となる国の拡大」というひとつの形が浮かぶ。映像中、中国人が「中国がもっと繁栄すれば、中国語をみな使わざるを得なくなる」と語っていたのが印象的である。だが一方で、フランスのように「言語=文化」という位置づけの国もある。フランスのような国にとって、以上にあげた考え方というのは実に理解しがたいものであろう。「リングァ計画」というものがあるように、単に他国の言語に閉鎖的でない点を考えれば、フランスのような言語の捉え方のほうが、もっとも自然なものであると、私は考える。私は日本語しか話せないが、英語や中国語は「興味がある」にすぎない。もっとも、英語や中国語は堪能であっても、日本語がうまく使えない日本人のほうが見直されるべきだと感じる。英語、あるいは中国語が「世界共通語」になるのは結構なことであるが、フランスのように、自国の言語を保護し深い理解を持ちつつ、「共通語」を戦略(もっといえば侵略)の道具にせずに「一種のコミュニケーションの手段」と捉え、他国の言語はその国の文化や社会を知る手がかりとしていくことが、もっともよい「言語」のあり方であると考える。

外国語を学ぶのには意義が必要であり、義務化には反対
 日本の某映画評論家が外国語をまなぶ意義についてこのように語ったそうだ。「外国語をまなぶ意義、それは外国人と喧嘩をするためにある」、と。じつに単純かつ明瞭な論理ではなかろうか? 外国にみずから乗り込み、通訳というわずらわしさからは自由に無媒介的な喧嘩をたのしむ。外国語をまなぶことは決して義務とはなり得ない、どこまでも個人の自由であり、むしろ目的遂行のための手段である。だから日本にいるかぎりは道であった外国人に喧嘩をふっかけたいとか思わない限り外国語をまなぶ理由はなかろう。小学校から英語を習わせるなど滑稽の極みだ。たしかにある年齢に達するまでにヒアリング能力はきまってしまうというデータは歴然と存在するわけで大人になって後悔してはもう遅いのであるが、それでも義務教育化にはどうも好意的になれない。いったい子供たちは何をモチベーションに英語をやればよいのか? 大人はこういうだろう。「大人になればわかるよ」、と。しかしそれは英語コンプレックスを抱えた大人の子供に対する過度な期待というやつで子供にはいずれ重荷と感じられるだろう。いずれにせよ日本語も十全に扱えないやつが英語をまなぶなど本末転倒だし、外国のことに興味をもった段階でまなび始めても全然おそくはないはずだ。だから僕はあのビデオのフランス人の主張を支持する。

英語は中学校からでも遅くない

英語の教育を小学校から義務化することについて、私は反対である。小学校のうちは母国語としての日本語をきちんと学習することが何よりも第一であると思う。正しい日本語が話せない若者が最近では増えているようであるし、敬語がうまく使えない人もいる。そういったものを教えてくれるのが「国語」の授業であり、大切に扱わなければいけない授業であろう。確かに現在の世の中において、英語の果たす役割は大きく、英語が国際語としての地位を確立しつつあるということも事実である。そのため、英語が話せるに越したことはないので、英語教育に力を入れようとするのも分かる。早いうちから英語を学べば吸収も早いと聞く。リスニング力は小さい頃から英語に触れることで耳をならし、その能力をあげることが可能であるようだ。国際的な日本人を生み出すためには、やはり早い段階での英語教育が不可欠となるのであろうか。実際のところ、中学以降の英語学習からでも将来英語を役立たせることは可能であると思う。その人自身のやる気・努力次第で何とでもなるはずだ。また、中学校から英語教育を始めれば、日本語の良さや英語の良さを感じながらも学習できる。小学校からの英語教育は英語に触れる一つのきっかけづくりとしてはよいが、それを義務化する必要性はないと思う。日本語の学習がおろそかになってしまってはよくない。小学校では日本語をよく学ぶことが大事であると私は考える。英語教育の義務化は中学校からで十分であると思う。

小学校からの英語よりもやるべきことがある
 
英語は国際語として機能していると言われている。例えば、第二外国語として話し、学校やビジネスの領域で多少英語を扱っている人たちも含めて、英語を使っている人たちの数は、世界の人口の4分の1にも及ぶ。英語の使用者が多いので、英語は、文化横断的な状況でビジネスを行うために、異なる国々の英語を母語としない人々の間で使われている。
 近年このことを踏まえ、日本でも、英語教育を小学校から義務化すべきだという声があがっているが、私は必要ないと考えている。なぜなら、他国の言葉よりまず母国語である日本語をしっかりと身につけておくことが重要だと思うからだ。
 ただでさえ学力低下、若者の言葉の乱れや活字離れなどが懸念されている今の学校教育に必要なのは、基礎学力であり、思考力、母国語の能力である。国語の力は小学校教育が基礎であり、この小学校教育の時点でよい文学作品に触れさせ、それについて議論をさせたり、感想を書かせたりすることにより、感性や思考能力をしっかり培わせることが重要なのだ。それなのに、母国語能力がまだ完全とはいえない状態で、他国語である英語を教える余裕があるのだろうか。実際、小学生低学年で親の転勤で外国(英語圏)に転居せざるをえなくなった子どもたちが、すべてバイリンガルになれるのかというと、かえって英語も日本語もダメになって帰ってくる場合が多いという。つまり、国語能力が確立されていないところに、いかなる他言語理解も成立しないということだ。
 何でもかんでも、「子供のうちに始めておけば良い。」という考えで詰め込み教育を押し進めるのは果たして本当に子供のためなのだろうか。英語がこのグローバル社会で必須になっていることは否定できないが、だからと言って英語英語とそればかり重視して教育を考えるのは、いかがなものか。私はそれよりも先にやることがあるだろうと思えてならないのだ。

今後、翻訳技術が高まるから、英語=共通語は必要なくなるのでは?
 ディベートの内容として、これからの世界に英語は必要であるかということが主な議題であった。ビデオを見て、インド国内ですらインド人同士が英語で会話をすると聞いて驚いた。また、フランス国内においても、近年の急激な発展によって生まれた新生語に対する訳語がなかったために、そのまま英語で話すしかない、話すほうが楽であるということでフランス人同士が英語で会話するということも見受けられるという。日本はかねてから外来語にはカタカナなどいくつかの手段を用いて、そのまま受容するようにしてきた。また、英語での新生語にもそのままローマ字で対応しフランスのような問題は起こらなかった。だから、フランスのように母国語を大切にし、英語を排除しようという動きにならなかったのだと思う。
しかしながら、これからの世界に英語が必要かと言われると、IT化によって同時通訳の機能も具現化してきた今、それほど必要ないのではと思った。まして、母国語を話すことで生まれる母国愛やアイデンティティーたるものを大切にすることが、これからの世界に必要なことだと私は思う。

確かに英語の共通語化は便利だが、「ものの見方」を均一化してしまいかねない
 
国際化が進む中、現在世界中の様々な国の人々が、英語の習得に励んでいる。日本でも小学校における外国語活動が、新学習指導要領として盛り込まれた。これについては、少ない授業数から、語学としての英語の習得の点ではほぼ成果が得られないように思うが、多かれ少なかれ日本人の英語に対する考え方に影響を及ぼすのではないかと考えている。このような英語の国際的な浸透が世界にどのような影響を与え、またそのような状況の中でなぜフランスが自国の言語を保護しているのかについて考えた。英語が世界共通語となるのは確かに便利なように思う。それは言語の習得には膨大な時間と労力を必要とするため、多数の国の人々とコミュニケーションをとるために多数の言語を学ぶということは困難であり、効率的であるとも言えないからだ。
 一方、英語が世界共通語になると、英語さえ学んでしまえば、世界中の人とコミュニケーションがとれる社会へと変わる。だが、英語が世界共通語になるということは、世界がすべて均一な言語をもつことを意味し、言語の多様性が失われる。では、言語の多様性が失われた世界はどのように変わってしまうのだろうか。外国語を日本語訳する際に、意味が完全に一致するものは少ないし、例えば、日本語では「沼」という一つの言葉で表されるものも英語ではmire,bog,fen,marsh,swampと区別されており、逆にbrother, sisterなど区別を持たないものもある。それだけ英語と日本語では物に対する見方が違うのである。つまり世界の言語が均質なものになるということは、ものの見方を均質にしてしまう恐れがあると考えられる。また均質なものの見方からは多様な文化を生むことはできないといえる。

 また、革命後のフランス政府は、国の管理下におきやすいように、国としての考えが浸透しやすいように、フランス語という均質な言語を国民に学ばせた。周辺の敵対国とのコミュニケーションが容易であったパトワは、革命思想を早く身に付けさせる妨げとなるとして撲滅が図られた。つまり、ここにフランスがフランス語を保護する理由のひとつが見られると思う。革命直後のフランスがそうであったように、英語が世界に浸透するということは、アメリカやイギリスの考え・思想をそのまま世界に浸透させることが容易になるということを意味する。それは伝達手段としてのみならず、前述したように言語がものの見方にも影響するためである。
 つまり言語は単なるコミュニケーション手段ではなく、ものの見方、文化につながる重要な意味をもつものであるため、文化を重視し、共和主義という絶対的な思想をもつフランスは言語を守る政策を行なっているのだと考える。

韓国における小学校からの英語教育を踏まえて言えること。
 私の出身国は韓国ですので、韓国の小学生を対象にして行われている「英語教育」の現状を述べ、さらに「小学生における英語教育の義務化はすべきではないこと」を論じたいと思います。 
 韓国の英語教育は本来外交官と翻訳者養成を目的として
1883年から様々の学校を建てることから始まる。終戦後、法律により義務教育になった小学校・中学校・高校のなかで、中学校と高校では教科科目として英語が義務化されたのだが、小学校の英語教育が義務化されたのは1997年のことだ。その理由は@「1982年を基点として世界で流されている情報の大半が英語で記されていること」A「世界化・国際化・英語の世界共用語化に対応し、国家競争力の増進」が挙げられる。
 私は「思春期以降(13歳以降=中学生)から英語教育を実施すべき」と思っている。しかし、LennebergJohnson&Newportの実験を根拠として早い時期から英語教育を行う、つまり小学生の英語教育が必要だという声が全国のPTAや学界から出たのだ。LennebergJ&Nの実験から分かるように、早い時期から英語の教育が行われるからといって必ずしもネイティーヴスピーカーのようにはなれない。また、早い時期から英語の教育が始まると、将来ハングルの駆使が不自然になる恐れがあるとともに、自国と外国に対する価値観の歪みも懸念される。それから、小学校3年生から始まる英語教育は年に68時間にしかならないので英語教師の責任が重過ぎる。
 ところが、1989年に行われたJ&Nの実験は英語早期教育の熱を一層そそのかした。海外へ移住する時期が早ければ早いほど言語学習の上達が早いという結果が出されたからである。2000年になってからは、10歳未満の子供の早期留学まで全国で流行っていた。これは、私が思うのにハングルの学習を諦めたことと等しい。親の満足のために子供を犠牲にして良いだろうか。
よって、言語学習能力の最適の時期が終わろうとする13歳以降、つまり中学校から英語教育を行うべきである。 

言語は単にコミュニケーション手段としてではなく、文化としても見るべきでは?
 現在、「世界の共通語は英語である」という認識が私たちの頭の中に存在している。英語圏以外の国々でも英語は必修化され、英語を話せるとかっこいいというイメージがあるのは私だけではないはずである。確かに、英語が話せると便利なことは多い。観光地では英語表記が必ずあるし、英語が話せるとビジネスの場面でも有利であることは事実である。だが、授業中ビデオを見て感じたことは、英語を共通語にすることはもしかすると間違っているのかもしれない、ということだった。
 フランスでは英語の教育を重視するとともに、フランス語を守るために国内で販売されるものはフランス語を使用する、という独自の法律、トゥーボン法を制定した。これは一見すると閉鎖的で、国際化が進んだ現代社会において遅れた考えのように思えた。しかし、言語を単なるコミュニケーション手段としてだけではなく、文化という面からみるととても大切なことであると感じた。もし仮に、世界中の人々が英語を話すようになったら、それぞれの国で今まで大切にされてきた文化としての言語はいつの間にか消滅してしまうだろう。
 確かに、世界が一つになって協力することが必要になった現代では「共通語」として英語は必要な言語である。だが、自国の文化を壊してまで英語の使用を強制することは必要ではないと思う。日本国内で小学生の英語必修化が問題になった際、「英語よりもまずは日本語を強化すべきだ」という意見も多かった。日本語がうまく話せないのに英語を学ばせるというのは順番がおかしいし、日本の将来がとても心配だ。フランスのトゥーボン法は後世に自国の大切な文化を残そうとするもので、日本もこの姿勢を見習うべきであると思った。

自国語に対する考えがしっかりしているフランス人
 私は中学生のとき、英会話を習っていた。先生はアメリカ人で、アメリカと日本をこよなく愛している、といったタイプの人であった。中学校で英語の授業が始まる少し前に通いだしたため、私にとってはその先生が始めての異文化発信源となった。先生が話すアメリカと日本の文化の差には、毎度驚きつつも感激していた。そんな、私にとっての異文化の情報源である先生が、ある日なにかのきっかけでフランスのことを話し始めた。旅行に行った、どこどこを見てきた、などといった内容だったが、私が衝撃を受けたのは「フランスはイギリスとドイツを嫌っているから、フランスに行ったときに英語を使っちゃだめだよ」という言葉だった。以来、なんとなくそのことが念頭に置かれてしまい、フランス人は英語を嫌っている、というイメージが私の中ですっかり出来上がってしまった。
 なので、フランスで英語をフランス語にわざわざ置き換えるという政策をとっている、と習ったときも、あぁやっぱりフランスは英語を嫌っているのだ、と思っていた。それが、実は英語を排除しようとしてのことではないのだと教わったとき、なぜそういえるのかわからなかった。しかし前期に学んだことを考慮に入れれば、すぐにわかることだった。フランス人は、言語をただのツールだとは思っていないのだ。フランス人としてフランス語を使うことに誇りをもっているのだった。
 思い返してみると、英語の先生はイメージとして軽く言ったのかもしれなかった。フランス人が英語を安易に使わないわけを、単純に捉えてはいけないと思った。言語というものの重みを、彼らがどう考えているか、それを考慮しなければならないのだろう。

「英語ができない=負け組」という社会でなければ、英語の小学校からの必修化には賛成
 私は、フランスの言語政策について、少々やりすぎなのではないかと思う。英語で広まっている単語をわざわざフランス語にして使用することは、どのような意味があるのか私にはよくわからなかったからだ。また、実際使う人にとっては困難なことであると思った。
 日本の英語の必修化については、とても良いことだと私は思った。私のときは中学校から英語を勉強し始めた。中学生になると恥ずかしがって英語を使おうとしない子が多い。だから、小学生のときから英語と親しんでおくことはとても良いことであると思った。また、小さいころから英語と親しんでおけば、現在のような文法重視の英語教育ではなくなり、話す・聞く能力がつくようになると思った。だから、英語の必修化について私は賛成である。
 今後英語がどのようになっていくかについては、私はこれからも英語は世界共通語として重要視されていくと思う。なぜなら、英語の能力を重要視する流れは強くなっていると思うからだ。韓国では就職面接はすべて英語で行われているし、インドでは大学受験が英語で行われている。このような流れを止めるのは難しいと思う。ただ、私が思うのは、英語の能力だけで人を判断しないでほしいということである。英語はあくまでも、人の良し悪しを判断する上での一つの材料としてあるべきだと思う。英語ができないからと言って負け組になってしまうような社会にはなってほしくない。英語以外にもさまざまな分野がある。だから、英語の能力以外の分野もきちんと評価してくれるような社会に、今後なってほしいと思った。


今の英語教育や教育制度のままでは、英語教育の早期化には賛成できない
 日本では最近、小学校からの英語教育の導入などが議論されている。その背景には、グローバル化する現代において、どこの国でも英語のスキルが重要視されるようになったことがある。日本も国際競争力を高めるために、早い段階から英語を教え、身に着けさせようと目論んでいるのである。以前授業で見たビデオでも、「英語を使えないと負け組」といった認識をする若者もいた。
 果たして、本当に早期からの英語教育は必要なのだろうか。私には、日本の実情にそぐわない政策のような気がしてならない。日本では、国語力の低下が問題になっており、母国語さえ満足に扱えない子供もでてきている。国語だけではない。他の教科でもそういった現象がおきている。そんな状況の中で他の教科の時間を削って英語を導入しても、さらなる学力低下を招くだけだろう。
 英語教育の開始時期は今までどおりで良いと考えるが、日本が見直すべきなのはその内容だと思う。今の日本で行われている英語教育は、文法中心であり、会話に重きがおかれていない。確かに文法も必要だと思うが、コミュニケーションがとれなければ、英語を使えることにならないのである。会話と文法のバランスのとれた教育をまず実施し、それでもやはり足りない場合に、早期教育を開始すべきなのである。
 しかし、必修の授業にしなくても、早いうちから英語に慣れさせるのは有効だと思う。特別活動などで英語を扱ったり、英語圏の子供が通う外国人学校と定期的に交流してみたりするなどして、子供たちが楽しみながら英語に触れあう機会を設けていってほしいと思う。

生半可な英語教育なら、しない方がマシ
 日本の英語教育を小学校から義務化することに関して、私は概ね賛成である。というのも、TOEFLテスト(ペーパーベース)におけるアジア3国(日本・中国・韓国)の平均スコア(1997年7月〜2000年6月)が日本は3ヶ国中最下位であり、台湾やベトナム、タイをさきの三ヶ国に加えたアジア主要国の小学生の英語学習時間数を比較してみても、日本の英語教育の遅れは、学習時間(学内・学外を問わず)を一目見れば明らかだからである。
 英語教育を小学校から義務化した際には、多くのメリットが生じることが予想される。例えばそれは、中学や高校での英語教育の質や量が増えること、また、それによって、現在ほとんど時間を割くことが出来ていない、より実践的な英会話の授業が可能となるということだ。英語が苦手という学生が中学や高校で出てしまうのは、わりと柔軟な小学生のうちから英語に親しんでおらず、6年間でただひたすら受験のための勉強を強いられるからではないだろうか。しかし、この義務化に対しては“深刻な国語力の低下を引き起こす”だとか“英語帝国主義の思う壺”だとかいう反対意見が挙がっている。だが、果たしてそうだろうか。私は、一概にそうとも言えないのではないかと思う。
 例えばロシアでは、小学校5年生から週に3時間ほど英語を学ぶ。また、それだけでなく第3、第4外国語として、主に、近隣諸国の言語であるフランス語やドイツ語を学ぶ。しかもそのレベル(日本でいう高校卒業時の会話能力のレベル)は、ネイティヴと普通に会話してもまったく支障を来たさないほどである。
 なぜこのような違いが出るかといえば、それはやはり日本の文部科学省が設定している習熟度の達成目標があまりにも低いからだ。ロシアの外国語教育の充実さを前に述べたが、それを可能にしているのは、膨大な量の宿題や真の力を問われる厳しい試験内容である。限界に近いところまで追い込まれなければ、自由自在に出力可能な外国語能力は培われない。私は、小学校からの英語教育の義務化には賛成であるが、生半可な習熟度設定での英語教育が実施されることにだけは賛成することは出来ない。

英語は必要なツールだが、さらに「世界化」するとは思えない
 今回授業で見たビデオの中で、「英語を話せると「勝ち組」か」、「英語は言語としてもっと広がっていくか」という疑問が出演者に向けられた。私は、その疑問に対して、前者の答えにはNo、後者の答えにはYESと答える。英語が話せるからといって勝ち組ではないが、英語はツールとして必要になっていると考える。映像にも出ていたように英語で書かれた情報量はインターネット上では圧倒的に多く、その情報を消化できる英語能力のある人は便利である。同時に英語は言語としてもっと広がっていくのは、私たち学生にとっても英語の文献を読まなければいけないなど、日々痛感することである。グローバル化が進んでいる今、現在は英語を国際的な言語として捉えている人も多いため、勉強する人も圧倒的に増加するだろう。つまり、英語をツールとして活用していくことで選択肢が増えていくと私は考える。
  今の日本社会でも英語がある程度話せる人材を社会は求めつつある。TOEICの点数がある程度なければ一流企業に入るのは厳しいと聞く。ある企業のホームページを見ているとTOEIC900以上の人を求めていた。このような現代の日本社会をみてみても、グローバル化の状況をみてみても、ビデオの中で、日本語を母語としていない国の人々が日本語をしゃべっているのをみても、私は自分の母国語、そして英語だけを学んでいてはこれからグローバル化が進む中で追いつけないのではないかという危機感を感じた。

   英語だけを必要とするかしないかは使う人の勉強すること、仕事の分野によって違ってくるのではないかと考えるようになった。大部分の人は英語だけを使う可能性が大きいいが、英語ではない言葉を勉強することでその国とことがよく理解できることもあると私は考える。つまり、英語と、自分の分野で必要だと思う言語を勉強することがこれからの社会に必要になってくると考える。
 ビデオの中に出てきた中国出身の女性は「もしかしたら将来、中国が国際的な言葉として扱われるようになるかもしれない」といっていた。その可能性は十分あるなと思った。グローバル化が進んできた今、私たちは大きな社会が求める言語を学ばなければ追いつけない。授業で「マリーアントワネットの時代、フランス語が中心となっていた」と先生が言っていた。流動的に動く社会と同じように私たちはその社会が求める言葉を勉強する必要があるのではないかとビデオ、そして先生の授業を通して私は考えるようになった。

国際語は世界の言語をを単一化するためにあるのではなく、意思疎通の手段としてあるべきだ
 現在、フランスではトゥーボン法という法律があり、フランス語で表現できるものはできるだけフランス語を使って表現しようという政策がとられている。英語で入ってきたワードをフランス語に置換して、それを使用するよう政府が薦めている。また、フランス国内で販売されるものには、フランス語を使用することが薦められている。売買されるものだけでなく、広告や契約などにもフランス語を使うことが決められている。実際に、ゴールデンタイムにおけるテレビやラジオの約40%以上がフランス語で行われているという。

 しかし、ここで私が疑問に思うのは、フランスにおいて、使用言語はフランス語だけなのかということである。フランスも属するヨーロッパという地域は多くの国が陸続きであるし、またそのヨーロッパの多くが加入しているEUの政策の結果、人々の行き気が実に自由になった。世界においてこれほどボーダーレス化が進んでいる地域は他にないかもしれない。その一員であるフランスにも多くの外国人がいるであろうし、その人々がもたらす文化もさまざまであろう。また、たとえ同じフランス人だとしても、宗教の違いや、地域による微妙な言語の違いがあるだろう。以上のことから、フランスは決してフランス語の文化だけにとどまらないのではないだろうか。
 これと比較して思うのは、我が国日本は実に単一国家に近い状態にあるのではないかということだ。実際には、北海道にアイヌ民族という少数民族が存在しているが、その数はとても少ない。宗教も、日本人の多くは仏教徒で葬儀もその様式で執り行うだろう。まぁ、日本人は極めて宗教心のない民族だと思うが・・・
 トゥーボン法が作られた一方で、フランスにおいて英語教育は大変重視されている。フランスもその一員であるEUの教育政策で、リングァ計画というものがある。これは、すべてのEUの人々が母国語以外の言語を第二言語として話せるようにしようという政策で、特に世界で多くの人々が使用している英語を第二言語としている人が多いようだ。
 英語教育に力を入れる一方で、フランス語保持のためにトゥーボン法を作ったのはなぜか。それは、言語が単なる意思伝達の手段ではないことを示している。仮に言語がそのようなものであったとしたら、世界中の国が同一の言語を使用しているだろう。だが、実際にはこの世界には数多くの言語が存在する。このことから考えて、言語は文化や慣習といった、その国や地域のアイデンティティーを表すものであると考えられる。こういったことから、フランス政府はフランスのアイデンティティーを保護するためにこういった法律を作ったのではないだろうか。
 しかし、これほど多くの人々が、海外へと飛び出す機会のある現代において、相互理解のためには、なにかひとつこれといった公用語がどうしても必要なのかもしれない。そういう面で英語は、それを主要言語としている国が多いし、また何より第二言語として本当に多くの人々に使用されている。しかし、忘れてはならないのは、世界を単一化させるために世界公用語を作るのではなく、相互理解のための「手段」にすぎないということだと私は思う。

フランスの一般市民は果たしてトゥーボン法を支持しているのだろうか?
 私はフランスが自国の言語を守ろうとすることを、やりすぎだとか、閉塞的だとは思わなかった。ただ、日本とは正反対だと思った。日本語もフランス語と同じように、英語の影響を大きく受けており、カタカナ語は日常生活で頻繁に使われている。今まで日本語で言っていた動詞や形容詞までも英単語に変えて使うこともよくある。フランスと同じような状況にあるけれども、日本ではこの英語の影響を止めようとする政府の動きや力はほとんど感じられない。ときどき専門家がテレビで日本語の危機を訴えているのを聞くくらいである。ところがフランスでは政府が法的な効力をもってこの流れを止めようとしている。
 私の偏見も混じるが、フランス人のイメージと言うと、とても愛国心が強くて、自国の文化を大事にする人々である。フランス国内ではほとんどフランス語しか通じず、英語を話すとなぜフランス語を話さないのかという目で見られるという話も聞いたことがある。だからフランスでは国民が願ってフランス語が英語にとってかわってしまうのを防ぎ、自分たちの言語を守ろうとしているのだろうと思った。ここが日本の現状とは違う原因になっているところだろうと思う。
 しかし、フランスの政府が指導しても全く使われず、無視されるケースも多くあるとのことだった。それは、フランス国民はそれほど英語が氾濫するのを恐れたり、嫌悪したりしてはいないのではないだろうか。もし、フランス国民も日本人と同じように英語を拒絶していないのならば、この政策は建前だけのものになっていってしまうと思う。この先、英語の力が衰えずにいたら、絶えずフランス語は英語の影響を受けることになるはずだ。それでは今のこの政策は少しきつすぎると思う。
 フランス語はとても美しい言語だと思うし、大切にしてほしいと思うが、日本語と同じようにそもそも言語は時の流れに乗って、使う人々によってだんだんと変化していくものであるはずだ。使う人々に合わせて英語の混ざったフランス語にこれからなっていくのもある程度は仕方がないのではないかと私は思った。それを法の力で無理やりに止めようとするのは少し無理がある気がする。

英語の世界化と思考の単一化は別の問題だ。
 確かに言語が単一化されることで、思考も単一化される可能性は否めないが、それでも全ての思考が単一化されることは、まずないはずだ。全世界の人々が英語だけを使い、その他の言語は全く使われなくなれば、それこそ思考も単一化されるだろうが、人々はそれぞれの母国語を持っている。ということは、その母国語に依拠して形成された価値観を各々が予め持っていることになる。更には、母国語というフィルター以前に、個人の人生の過程で形成された価値観というもっと中核的なフィルターを通すことによって、同じ単語でも個々人の受け取り方、定義の仕方が変わってくるものである。つまり、国がわざわざその法律によって思考の単一化を防ぐまでもなく、人々はその個人個人の価値観によって、免れ得ることなのではないかと思う。

(もう一人の意見)幼い頃からの英語教育は、母国語の能力低下が懸念されている。しかし、映像を見ながらそれは本当だろうかと私は疑問を抱いた。帰国子女だからといって日本語力が乏しいわけではないし、逆に言葉の乱れといわれる言葉の変化は、多言語の介入によって起こるものとは一概には言えない。言語が単一化されるという言い方は確かにネガティブに捉えられるが、英語を勉強することによって言語は本当に単一化していくのだろうか。私は外国語を学ぶことで、より母国語の表現の豊かさや感性の違いなどに気づくこともあると考える。母国の風土や文化に根付いた言語と、ツールとしてつかう言語は、別物と考えてしまえば単一化は起こらないと思う。むしろ、母国を誇りに思い、文化や言語を大事にしたいという思いは、英語という一つのツールによって世界に伝えることを可能にしてくれると思う。

将来世界は英語化するのではなく、多言語化するのでは?
 さらに英語が普及していくかどうかということについては、それよりも多言語化が進むと思います。経済的に強い立場で活躍する人々が多く使っているのが英語で、英語を使えば仕事でも有利というイメージがありますが、実際には自分が働く場によって必要な言語は違うし、英語が世界を引っ張りつづけるということも無いと思います。かといってその代りに英語ほど広がる言語が出てくるわけではないと思うので、多言語化するのではないかと考えます。

理解はするがやりすぎに思えるトゥーボン法
 前回の授業を受けて、フランスでは自国の言語を保護するための法律があるほど自国の言語が大切にされていることを知った。それと同時に、過去に私はこんな話を聞いたことがあるのを思い出した。「フランスでは旅行に行ったとして、英語で会話しようとしても通じない。フランス語しか通用しないのだ。」と。多少大袈裟だとは思うが、なんでも、最近は英語を話せればほぼ海外ではなんとかなるが、フランスではなかなかそうはいかないらしい。確かに、私は5年前フランスに旅行に行ったことがあるが、カフェのお兄さんがたどたどしい英語で説明してくれた以外は英語を耳にすることはなかった。5年も前なので今はどうなのだろうか。「トゥーボン法」の話があったが、この法律はまるで戦時中の日本みたいだと思った。「メートル」を「米」などむりやり漢字化して英語を排除していた頃である。この「トゥーボン法」をはじめとしたフランスにおける言語防衛はフランス政府の度が過ぎていると思う。新語をフランス語に置き換えなければ罰則すら与えられるのは強制的すぎる。フランス国内に英語が氾濫することをおそれそのような政策をとっているとのことだが、一方でフランスは英語の教育には力をいれている。
 この点から、私が推測するのは、「フランスは英語の存在を否定しているわけではない。ただ、自分たちの使用する美しいフランス語が同じアルファベットを使用する英語に汚されたくない、またフランス語と新語が混ぜられて使用されることで美しさが失われるのがいやだ。」というやはり自国を愛しすぎてしまうことからくる政策なのである。自国の美しい言語を守るためなら罰則をも辞さない。フランスのお得意のスタイルと言える。多様性を重んじるとしながらも実際には理想と化している。自国の言語を愛する気持ちは大事だし立派だと思うが、罰則を設けるのはどうかと思う。共和政を形だけでも貫くフランス政府はフランス国民にはどのように思われているのだろうか。新語をフランス語に置き換えても実際には定着せず無視されているといった点からもそのようなことも気になった。

違和感を覚えるフランスの言語政策
 フランスの文化政策は少々過剰な気がしてならない。特に言語の保護に関してはかなりの違和感を覚えた。元々、日本語がひらがな、カタカナ、漢字、アラビア数字、ローマ数字、アルファベットなど多数の外来文字が混在しながら、それらを日本独自にブレンドすることによって一つの言語として成立している点からすると、他国の言語の流入に過剰反応しすぎではないか、と思ってしまう。これは歴史・民族の違いからではないだろうか。日本は明治維新も外国文化の流入によって成り立っているし、国民が「散切り頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」などと急速に外国文化になじむことが出来たのも、良いものならば取り入れてしまえ、というミーハー気質によるものではないだろうか。一方フランスは(これは私の勝手な推測でしかないが)市民革命などを通じて自ら政治、文化を勝ち取り、ナポレオン時代にはヨーロッパの覇者として君臨していたという歴史がある。日本と違い、陸続きの大陸で他国との戦争を続けてきた歴史も、その国を純化(その国としてのアイデンティティを深める)させる要因の一つではないだろうか。共和主義も「フランス」というアイデンティティを中心にそこから自国の文化以外は認めない、という現在のフランスの文化政策が生まれたのではないだろうか。このような国の歴史の違いが文化感の違いを生み、私はフランスの文化政策に対して違和感を覚えるのだと考える。

「早期言語教育がよい」という考え方は、外国語には該当しない
保護者が賛成の立場が多いのに対して、教員は反対の立場が多い。保護者の立場から考えると、これからの国際社会において英語は重要で早いうちから子どもたちに学ばせたいという思いが強いはずである。しかし教員からすると、やはり英語を小学生のうちから教えるのは早いし、他にも教えなければならないことがあるという思いがあるだろう。私は、多くの教員と同じように、小学校での英語の必修化には反対である。週に1回程度外国人による英会話に少し触れるくらいはいいかもしれないが、他の科目と同様に必修化して学ばせるのは少し早いような気がする。私が使っている第一言語としての日本語と第二言語としての英語は習得の仕方が明らかに異なる。やはり、第二言語を学ぶには文法も学ぶ必要がある。英語を必修化していくら早いうちに英語を学んでも、英語に触れる時間は日本語に触れる時間に比べたらはるかに少なくなるのは確かである。早く始めれば、バイリンガルになれると言うのは常に2つの言語に触れられる環境がある場合に言えるのであって、一般の子どもが英語を学ぶにはやはり文法をしっかり学ぶ必要がある。それには、小学生はまだ早いのではないか。日本語がまだしっかりできないうちに英語の文法を学ぶのは難しいし、早いうちからやることで苦手意識を持たせる要因になるかもしれない。したがって、小学校では国語やその他の科目を学び基礎学力をつけることの方が重要である。

自国語を大事にしないということは、自国の文化を大事にしないということだ。
 授業でフランスの言語保護政策についてのビデオを見たとき、こんなにも自国の言葉に固執するものなのか、と驚きました。例えばマウスやコンピュータはほぼ世界共通語となっているにもかかわらず、フランスでは独自の言葉を作り、それをフランス市民に使用するように義務化している。なぜ、このようなフランス語保護政策が行われるようになった背景は簡単に予想がつく。20世紀初めまで、フランス語は上流社会での共通語だったし、フランスはかつては世界でも有数の大国だったからだ。しかし実際、国際フランス語圏機関(OIF)が3月に出した報告書によると、中国語、英語、インドのヒンディー語、スペイン語、ロシア語、アラビア語などより少ない人口規模だ。
 フランス語の独自性を守るためにフランスが戦うのはいいことだと私は思う。現在の日本は様々な外来語が氾濫し、横文字を多用し、言葉を簡単に略す。日本人にとって日本語は単なるコミュニケーション手段でしかないのであろう。このような傾向は、日本固有の風流や慣習、感情表現を失ってしまう事態になりかねない。「もったいない」という日本固有の言葉が、最近世界で評価されたにもかかわらず・・・。
 だからこそ、フランスのように、自国の言葉を守ろうという姿勢は大切なことである。述べたように、自国の言葉を守るということは、言葉だけでなく、その国の人々の独自の感情表現、慣習、風流など別の側面をも守ることにつながる。すべてフランス語で話すよう義務化するか否か、というのは別問題だが、フランスの歴史的建築物が何百年たっても美しく保存され、街並みと調和しているさまを見ると、まずはフランスのお国の言葉を大切にしようという姿勢がないと、その他の伝統的なもろもろも守っていけないのだろう、と改めて感じた。

いずれ日本も英語が必要になる。
 
私も今後、少なくとも当分の間は英語はますます必要になっていくと思う。世界中がほとんどラグなしにインターネットでつながるような、情報化社会の中で、自分とは異なる言語を操る他人と接する機会は爆発的に増えたし、日進月歩の技術革新が進む中でその機会はこれからも増える一方であるように思う。その時の使用言語として主に英語が選ばれるのは、アメリカの一極化世界のためという意見もあるかもしれないが、単に最も多くの国、地域で使われている言語として選ばれるのは不自然でなく思える。ちなみに人口面のみ見れば中国語の使用者がトップだが、国際社会に直に関わる中国人の数といえば大幅に減るであろうし、インドの英語化が進んでいる現状を考えれば、その人海戦術も威力は弱まっていく気がする。英語主導の国際言語社会は、天変地異でも起きて世界から英語人口が大きく減ることでもない限り変わらないだろう。日本に暮らしていると、さして英語が必要な状況に陥ることもなく、切羽詰って英語力が必要な思いに駆られることもない。しかしそれは映像の中で誰かが言っていたとおり、日本が外国人の流入の少ない島国で、日本人は日本の会社に勤め、その中で暮らしているからである。そんな環境は、今までの日本なら日本語のみ使えれば暮らしていける世界だっただろう。しかし初めに述べたとおり、携帯やパソコンで非日本語使用者と簡単にコミュニケーションが取れるようになった今、日本の会社の中にいるからといって日本語だけで暮らしている人は少なくなっている。英語を話せることは大きなアドバンテージとなり、英語学校や資格が氾濫する。世界規模で英語化が進めば進むほど、グローバル化に対するナショナリズムのように言語保存運動は起こるかもしれないが、日本含め、英語が必要になる世界はこれからも広がっていくように思える。

母国語以上に英語をやる必要はない。
 
「英語ができないと、負け組ですか」という映像を見て、私は英語の重要性に対する考え方が少し違っていたと感じました。この映像の中で、八人の違う国の人が自分の国の英語に対する政策や考え方などを紹介しました。いま、英語は世界の共通語になったといえます。しかし、だからと言って、母国語以上に勉強する必要はないと思いました。

英語は嫌いだが必要だ。
私は、中学校の時からずっと英語の勉強が大嫌いだった。まず単語を覚えるのも苦手だし、勉強しても何をもってできるようになったといえるのかがよくわからなかったからだ。例えテストでいい点をとっても、他の科目とは違って充実感がわかなかった。受験勉強としてとりあえずの学習をして、今に至る。
 しかし、大学になり、英語に対するそのような考えはかわった。その理由を整理してみる。
 まず、国際共生社会課程という学科であることもあって、友達や留学生との交流の中で、同じ場を共有するための条件として英語が求められるようになった。英語を勉強するのが嫌なら、日本で日本語だけを使って生きていけばよい。それで十分だ。という風に考える人は多く、自分もその一人であった。しかし、たかが英語が喋れないというだけで、世界人口の60分の1の人としか交流することが出来ず、その小さな輪に縛られ続けるということが、もったいなく感じられるようになった。
 さらに、海外旅行をしたことで、“会話”が人間関係や、お互いの意思疎通をどれほどスムーズにするかを学んだ。今まで、日本に住み日本人とばかり接してきたために、あまり、コミュニケーションにおける言葉の果たす役割について考えたことがなかったが、外国人と触れ合う中で、気持ちや思考回路を伝えるためには、言葉を使うのがもっともわかりやすく、てっとり早いということを知った。実際、同じ人とすのにも、自分が相手の言語を少し知っているだけで、随分と分かり合えたような気がしたし、相手がこっちの言語で話してくれると、随分と理解しやすかった。
 そして、授業やさまざまなコミュニティーとの関わりの中で、新しい知識を得つにつれ、様々な分野でのグローバル化が自分の思っていた以上に進んでいるということを実感し、同時に英語の必要性を感じるようになった。企業や人の国際移動が活発に行われている今日、その手続きや契約の場では当然のように英語が使われる。逆に、コンタクトをとろうと思ったら英語が求められる。もはやグローバル化と全く縁がない分野など存在しないのではないか。とまでに思われる世の中で、英語が使えないのは致命傷といっても過言ではないかもしれない。
 以上が、私が英語の必要性を感じた理由だ。しかし、これは私の場合には決してとどまらないはずだ。世界の共通語は、さらに拡大の一途をたどると思う。

フランスでは映画の字幕翻訳がほとんどないと知って驚いた。
 フランスの自国の言語や文化に対する思いは、日本などに比べて非常に強いということがわかった。ここで私は日本と比較しながらフランスについて考えていきたいと思う。フランスの自国の言語に対する思いの強さを表す例として、トゥーボン法というものが授業であげられたが、私はこの法律に非常に衝撃を受けた。日本では当たり前のように外国語がテレビや広告に使われている。映画においても私たちは吹き替えと字幕の好きな方を選ぶことができる。もしこれらが規制されてしまったとしたら大変なことになるだろう。しかしフランスではすべてではないにしてもこれらが規制されている。しかしかといってフランスが社会混乱に陥っているわけではない。日本では、たとえば、映画なら吹き替えよりも日本語の字幕で鑑賞するほうが好きだという人も多い。それが吹き替えだけになってしまうと言われたら、日本の人々は激しく反対すると思うし、トゥーボン法のようなものを施行するのは不可能であると思う。しかしフランスでは、すべての国民が納得しているとは思えないが、トゥーボン法を施行できたということをみても日本の人々の意識とフランスの人々の意識に大きな違いがあると感じた。

フランスは非常に自国語を愛しているのだと実感した
 フランスは、自分の国の言語を大事にする国なんだなぁと思いました。フランス語にはない外国語の単語でも、それに対応した新しい単語を作るというのがすごいと思いました。そのたびに新しい単語を覚えるというのは大変ではないのかと思いました。それに、新しい単語なんて何か新しい技術などが生まれる度にいくらでも出てくるのだから、それを全てフランス語に置き換えるのは相当な労力と時間がいると思います。

日本語の教育は、何も学校だけで行われるのではない。
 小学生という、日本語の話力も覚束ない状態でさらにもう一言語、英語まで教えるというのは負担が大きく、結局両言語とも中途半端な上達しかできないのではないかという懸念もある。しかし、母語である日本語の能力というのは必ずしも、学校教育の中でのみ身についていくというものでもないだろう。家族との日常的な会話であったり、読書であったりと、学校教育という制度とはまた異なる環境でも日本語に触れる機会は豊富にある。学校教育の中で日本語と英語を両立していくために、人と人の交流の中で自然に学ぶことの大切さを見直したり、文化資本を整えたり、すべきことはたくさんあるのではないか。日本語、英語ともに言えることだけれど、言語そのものだけを学ぶのではなく、様々な知識、教養を身につける中で次第に言語能力も高まっていくというのが本来あるべき学習であろう。


フランスの言語政策はやりすぎにも思えるが、無批判的にカタカナ言葉を使う日本は見習うべきでは
 英語の言葉が次々と国内にあふれていく状況は、フランスに限らず多くの国で見られることである。この状況に対するフランスの政策は日本などのほかの国よりも厳しく、もう少し緩和してもよいのではないだろうか、と初めは考えた。しかし、確かに緩和すべき点もあるが、フランス以外の国々が英語の流入に寛大すぎる、ということが、フランスの政策をより厳格なものに思わせている面もあるように感じた。
 その大きな理由は、言語は単なるコミュニケーションの手段ではない、ということである。言語にはコミュニケーション手段以外にも、その言語を話す地域の思想や価値観を反映しているものという特徴がある。つまり、自国の言語を守るということは、自国の思想や価値観を大切にすることにも繋がっていく。多くの英語が入ってくることに対して全く歯止めがかけられないでいることは、ある意味では伝統の文化を失うことに繋がるため、フランスのような強制的な言語防衛政策はほかの国々も見習うべき点があるはずである。
 ただし、フランスの言語防衛政策はどこまでも通用するものではないだろう。英語の言葉が国内に入ってくる流れがこの先すぐに止まるとは考え難い状況で、フランス語の中に英語が混ざることを拒み続けるのは困難である。日本などのようにもはや拒むことなく英語の言葉を受け入れてしまうのは問題であり、自国の言語を尊重する姿勢は重要だが、現在の世界の状況を見ても、ある程度は拒否せず受け入れることが必要であろう。
英語が母語でない人がALTとなる現状
 英語を世界共通語としている今日、英語教育が多くの国々において重視されているのが実情である。もちろんそうした動きは日本においても見られる。では、日本の英語教育の政策がどのように進められているのか、ALT(Assistant Language Teacher)と呼ばれる外国人指導助手の実態から捉えてみたい。
 日本ではALTの招致プログラム(通称JETプログラム)が1987年に始められた。それ以来、順調にその参加数を増やしてきたのだが、近年、その流れに淀みが見られるようになった。ALT参加人数は2000年5467人、2001年5583人、2002年5666人、2003年5659人、2004年5567人というように、ほぼ横ばい状態が続いている。ALTには英語、ドイツ語、フランス語、中国語、韓国語の五言語があるが、そのほとんどが英語のALTである。つまり、この参加人数の推移からわかる通り、英語ネイティブ・スピーカーが世界的に品不足になっているのだ。世界中が英語教育のために、英語ネイティブ・スピーカーを必要とするようになり、その需要はヨーロッパだけでなく、アジア、アラブ、アフリカなどあらゆる国々で高まっているのだ。  また、ALT招致国に2004年度から新しく加わった国としてロシア、ルクセンブルク、ギリシャ、スロベニアなどがある。これらの国からの参加者は全て英語のALT として採用されている。それに加えて、南アフリカやインド、シンガポールなど英語を国の公用語としている国々からの参加人数も増えている。つまり、英語ネイティブ・スピーカーということはすでに形骸化しており、非英語諸国や準英語諸国出身のALTが増えているのだ。
 要するに、英語は世界中で必要性を高めているのと同時に、「いろいろな英語」が認められつつあり、「国際語としての英語」という考え方が世界に広まっているのだ。

英語の世界共通語化は避けがたい事実であるが、自国語をきちんと教えることも重要
 フランスの言語と文化の授業を通して、フランスが言語の危機に瀕していることを始めて知った。英語が「世界共通語」と言われる中でフランスの母国語を守ろうとする姿勢に驚いた。私自身が住んでいる日本と比べると、考え方の違いがよくわかると思う。日本では、これからは英語が使えないといけない、というような風潮があると思う。もちろん反対意見を唱える人もいるとは思うが、英会話教室のコマーシャルはどんどん増えているし、英語能力をはかる試験がますますメジャーになってきた。世界に通用するには英語が必要だという認識が高まってきているのだと思う。一方フランスでは、英語をフランス語に置き換えてなるべくフランス語を使おうとしている。はじめは、法でまで定めてフランス語を使う意味はあるのか疑問だったが、英語をただ単に排除するのではなく、英語教育に力を入れながらもフランス語を守ろうとしていると知って驚いた。母国語に対する誇りがそういう考え方を生むのだろうなと思った。
 ビデオでは、英語を話せることが重要かそうでないかについて様々な国の人が議論していて、それぞれに納得できる点があった。私自身は、英語を話せることはこの先ますます重要だと思う。英語を話せるようになりたいとも思う。グローバル化が進む世界で、様々な国の人々のコミュニケーションを可能にする「共通語」という存在はすばらしいと思うのだ。しかし、その「共通語」によって母国語がかき消されるということは避けたい。言葉は、文化や伝統、その国のアイデンティティにつながると思うからだ。そう考えるとフランスの考え方は、様々な状況に対応できるよく考えられたものなのではないかと思う。英語を手放しで受け入れている私たちは「言葉」というものについて深く考えてみる必要があるのかもしれない。

グローバル化の中心となっているアメリカの言語、英語の世界化は抗しがたい
 世界の言語教育が今後も英語を中心とした英語第一主義の色合いを強めていくのか、それとも現在の流れに逆らい様々な言語が見直され教育、伝承されていくのかとても考えさせられる問題だと思います。私はグローバル化が進む現代においてこのような言語の問題をアメリカ抜きでは語ることは出来ないと考えています。特別アメリカという国について論じるというのではなく、現代文明、現代社会を考えるうえでアメリカは決定的な重要性をもっていますからアメリカ抜きで考えることは出来ないと思うのです。
 初めに結論を述べるとするならば、当分少なくとも21世紀の間は言語の英語一極主義は現在の流れを加速させながら続くと私は思っています。確かに、フランスのように自国の言語を大切にするという政策、社会の流れはとても大切なものだと私は思います。日本もフランスを見習うべきところも多々あると個人的には考えています。また、少数の人々にしか使用されない言語が次々と消え去っている現代であるからこそ上記のような保護の流れもよく理解することができます。しかしながら、やはり現在の社会の流れを考えると英語が第一といった流れは仕方のないことなのではないでしょうか。
 英語はやはり世界の公用語です。英語が満足に使えないとなると現在の世界で生き残ることは難しいと思われます。実際に日本が米・英のような金融国に成ることが出来ない理由に英語を満足に喋れる人間が少ないからという調査結果があるそうです。日本は大きく出遅れています。特別資源に恵まれないアジアの国にとっては外資を呼び込むことは経済発展の近道です。つまりは国民の英語の出来によって経済が左右されることもあるのです。このような理由もあって数々の言語が消えてゆき英語にとって代わられる現状をよいものとは思いませんが、時代の流れとして仕方のないものだしこれからもその流れは続くだろうと考えるのです。

国語教育を犠牲にしない形なら、小学校からの英語教育に賛成
 結論としては小学生の英語教育を義務化にすることは良いと思います。私は中学から英語を学びだして、すでに小学生のうちから学んでいる友達を羨ましいと感じたことを覚えています。友達に英語=勉強という意識がなかったからです。また、子供たちにとって英語がどのようなものなのかはそれぞれだと思いますが、英語を話せることがカッコイイと感じる子供にとっても、単なる嫌いな科目の一つと感じる子供にとっても、英語が大人社会での有利な手段の一つには変わりないと思うのです。
 ただし、何よりも母国語は大事にしてほしいものです。ですので、小学校での教育科目に英語が加わっても、国語の授業は減らしてはいけません。総合とか、生活という総合教育の時間内に英語を学ばせることが良いと思います。小学生のうちは子供たちにとって、英語を勉強の対象でなく、コミュニケーションの一つという感覚を持たせられたら良いでしょう。苦手意識を持たせぬよう、小学生の間に英語に馴染ませてあげることが大事だと思います。

グローバル化に逆行しているフランスの共和主義と言語政策
 私はフランスの言語防衛政策になぜそこまでしてフランス語を守ろうとするのかという疑問を抱いた。英語教育を重視しているにも関わらず、トゥーボン法にのっとってあらゆる所でフランス語を使用するようにしたり、新語を無理やりフランス語名で広めようとしたりするところに一種の矛盾を感じたからである。英語である“e-mail”という単語を無理に長いフランス語で表現し広めようとしたがうまくいかなかったということを聞いた時、その行為が意味のあるものとは最初私には思えなかった。日本にも外来語はたくさんある。私たちが普段何気なく使っていた言葉が実は外来語であったと思い知らされることも多い。しかし、日本はフランスのように、それらの外来語を使用することで日本語が支配されるというふうに考えている人は少ないと思うし、現在世界がこれほどまでにグローバル化され英語が共通語になっている今、英語を使うことは自然なことである。けれども、違う視点で考えてみると、フランスがこれほどまでに自国語を守ろうとするのは、前期の授業で扱われたフランスの共和主義が大きく関係しているからだ。そう考えると、愛国心やフランスの文化や伝統を守ろうとする思いが日本や他国よりも強いから、このようなことを行うのだろう。そういう視点から見れば言語防衛政策を行うフランスは、共和主義という自国の精神を重んじるという点で、フランスというひとつの国として見れば良いことなのかもしれない。しかし、国際社会の一員としてのフランスとして見れば、やはり言語防衛政策はグローバル化に逆行しているように思えて疑問を感じざるをえない。グローバル化の中で、自国の考えや伝統を守るのは悪いことではなく大切なことだと思うが、行き過ぎると良くない。日本もこれから今よりも日常生活で英語を使用する機会が増えれば、フランスのように言語防衛政策を行うのかと考えてみた時に、私はやはりそれはないと感じる。なぜならグローバル社会の中で英語は重要なコミュニケーションのツールであるし、多くの人が英語に馴染んでいくということは日本の中での国際化が進むことであり時代に即していると思うからである。また日本語を形成する平仮名やカタカナ、漢字が英語と似通っていないという点もあるだろう。

議論がすれ違っていた
 ビデオの感想につきましては、議論がかみ合ってなかったと思います。なぜなら英語がしゃべれることが有利であるかという議論と、英語という言語が他の言語と比べての優劣かどうかという二つの議論が時折混ざったまま、話し手の二人とも、そのまま違う問題について議論を続けていたからです。英語を使えることが有利ということがそのまま英語という言語自体の評価にはつながらないと思います。それは司会者がお笑い芸人であり、それほど進行に気を配ってなかったせいもあるのではないかと思います。
上記の二つのうちの一つ目の議論については、考えるまでもなく話せないより話せるほうがよいというのは明白なことだと思います。単純にないより、あるほうがよいというのは当然であると思います。英語をしゃべることができるのは便利であると思うので、小学校から英語教育をするということには賛成です。将来的に英語を話す機会がない人でも、英語がしゃべれるということで損をすることはないと思います。

小学校からの英語教育導入は別に悪いことではない。
 日本語もまだ定着していないのに、英語を学ぶことができるか。生徒は混乱してしまうのではないか、という意見が小学校の英語教育について反対する人から出たりするが、私はそうは思わない。あくまでも小学生はその授業の時間でしか英語と触れる機会は少ないだろうし、やはり普段日常的に使うのは日本語であり、勉強の一つとしてとらえているだろうから、英語の勉強を早い時期からやったところで生徒にデメリットを与えると
も思わない。

日本に留学して英語の重要性がわかった。
このビデオを見たら、私は英語ができないと負け組だと思っています。特に日本に留学している私は英語の重要性がよく分かりました。英語ができないと、非常に不利な立場になります。実は私の英語が小さい頃から苦手で、そのため、たくさん苦労しました。中学校の時から、試験の時、英語が苦手で、ほかの科目の点数がいくら高くても、英語が非常に低くて、総合成績はいつも良くなくて、そして、高校に入ってからも同じで、英語の一科目だけが良くないと、全体の成績も落ちてしまいます。そうすると自分が行きたい大学に進学もできなくなりますから、英語が出来ないと、いい大学に入りにくく、将来にも大きな影響が与え、結局、不利な立場になってしまいました。また、現在の社会では本当に英語が出来ないと、仕事にしても大変難しいだと思います。例えば、今日本の会社はほとんど海外業務があります。そうすると、外国人とコミュニケーションをとる時は、英語が必要となって欠かせてはいけません。そして、今の日本ではたくさんの外国人の旅行のお客さまが来ています。もし英語ができないと、対応できないでしょう。そうすると、英語が出来る人に仕事を奪われていくでしょうか、ですから、やっぱり、英語ができないと、いい仕事に就職ができません。最後に実は我々の生活の中にも英語がたくさん飛び込んでいます。店の名前とか本の名前とか映画の言葉などのたくさんのところに英語が使われています。多分、これから、もっとたくさんの英語が使われていくでしょう。これから、英語が使う人の増加と共に、もっと重要になっていくでしょう。ですから、英語ができないとやっぱり負け組になっていくでしょう。

自国語と同時に他国語である日本語も大事にするビデオのフランス人の姿に感動した
 他国の人と見るポイントが微妙にずれてしまっているかもしれないが、とにかく日本語が綺麗だった。最後に司会の品川もフランス語を学びたくなったと言っていたが、私もフランスに対してとてつもなく好印象を持った。中国人やインド人の話す日本語はどこか汚く聞こえ、アメリカ人はアメリカとさえ言えてなかった。それに比べフランス人は流暢に一語一語を大切に話してくれた。アメリカ人にフランス政府を悪く言われてもその話し方は変わらず、素晴らしい人柄が見えた。この人一人を見てその国全体を見てはいけないのだろうが、自国の文化を守ろうと、強く国語を擁護しているフランスでは、他国の言語に対してもその姿勢を崩さないのだろうと思い、今まで以上にフランスが好きになってしまった。

日本人にとっても英語とはステイタスであり憧れでは?
 
日本人にとって英語は最大のコンプレックスのひとつであるといえる。英語を話すことができる人たちに対して我々は羨望のまなざしを向け(この場合の英語を話せる人とは日本人に限らず、英語が母国語である外国人も含む)、同時に自分に対しては引け目を感じてしまう。つまり日本では、英語を話せるということは一種のステイタスであり、あこがれの対象なのである。今回講義中にある映像を見たが、各国によって英語や自国語対する考え方や意見が様々だったのが印象的だった。もちろん彼らの意見がその国の代表意見というわけではないものの、中国やフランスの人は英語の便利さを認めながらも自国語を尊重しており、英語はあくまでツールのひとつでしかないという考え方は新鮮だった。我々の多くはどうしても英語を話すという行為自体に憧れを抱いているから、英語と仕事をすぐに結びつけることは少ない。したがって多くの日本人は、英語が話せるから勝ち組であるといった韓国のような意識は薄く、むしろただ単に外国人みたいで格好いいと思う程度の認識である。

教員数や教育制度、学習意欲の面から、英語の小学校からの義務教育には反対
 私は日本の小学校における英語教育は義務化すべきではないと考える。 なぜならまず、生徒側の混乱と生徒・教員側の負担が考えられるからだ。母国語の義務教育が始まったばかりで、母国語教育もままならない状態で外国語教育も行うのは同時に2言語を習得しようと試みることで、下手をすれば日本語も英語も理解出来ず、不得意になったり嫌いになったりする可能性も考えられる。早いうちから日本語・英語への知的好奇心を喪失させることは重大な過失であるといえるだろう。
  それから英語教育を義務化するならば、現在の授業数を見直す必要があるだろう。しかし学力低下が叫ばれる今、他の科目の授業数を削るということは考えにくく、そうすると授業数を増やすことになり、授業の準備や予習・復習、課題といった教員、生徒双方への負担も増加することになるのである。ただ、授業数の増加の問題については総合的学習の時間を上手く利用すれば多少解決できると思われる。
  また実際問題として教員数の問題も考えられる。英語教育を義務化するならばその専門教員も必要であるからだ。現在の小学校教諭達に研修を受けさせ、英語教育も行えるようにすることも方法の1つであるが、それは莫大な時間と労力を必要とする。そして義務化してまで英語教育を行うならば、徹底した英語教育が行われるべきでそのために英語の専門教員を配置することは重要だと考えられるだろう。それならば現在英語の教職免許を持っている者たちに呼びかければよい話に思えるが、教える対象は中高生ではなく小学生で、専門教員には英語の能力だけでなく、日本語の能力も求められることになり、それなりの質の教師を集めるのはそう簡単なことではない。